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老妓抄

著者:岡本かの子

ろうぎしょう - おかもと かのこ

文字数:15,488 底本発行年:1950
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著者岡本 かの子
底本: 老妓抄
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序章-章なし

平出園子というのが老妓の本名だが、これは歌舞伎俳優の戸籍名のように当人の感じになずまないところがある。 そうかといって職業上の名の小そのとだけでは、だんだん素人しろうとの素朴な気持ちに還ろうとしている今日の彼女の気品にそぐわない。

ここではただ何となく老妓といって置く方がよかろうと思う。

人々は真昼の百貨店でよく彼女を見かける。

目立たない洋髪に結び、市楽いちらくの着物を堅気風につけ、小女一人連れて、憂鬱な顔をして店内を歩き廻る。 恰幅かっぷくのよい長身に両手をだらりと垂らし、投出して行くような足取りで、一つところを何度も廻り返す。 そうかと思うと、紙凧かみだこの糸のようにすっとのして行って、思いがけないような遠い売場にたたずむ。 彼女は真昼の寂しさ以外、何も意識していない。

こうやって自分を真昼の寂しさにいこわしている、そのことさえも意識していない。 ひょっと目星めぼしい品が視野から彼女を呼び覚すと、彼女の青みがかった横長の眼がゆったりと開いて、対象の品物を夢のなかの牡丹ぼたんのように眺める。 唇が娘時代のようにまくれ気味に、片隅へ寄ると其処に微笑がうかぶ。 また憂鬱に返る。

だが、彼女は職業の場所に出て、好敵手が見つかると、はじめはちょっとほうけたような表情をしたあとから、いくらでも快活に喋舌しゃべり出す。

新喜楽のまえの女将おかみの生きていた時分に、この女将と彼女と、もう一人新橋のひさごあたりが一つ席に落合って、雑談でも始めると、この社会人の耳には典型的と思われる、機知と飛躍に富んだ会話が展開された。 相当な年配の芸妓たちまで「話し振りを習おう」といって、客を捨てて老女たちの周囲に集った。

彼女一人のときでも、気に入った若い同業の女のためには、経験談をよく話した。

何も知らない雛妓おしゃく時代に、座敷の客と先輩の間に交される露骨な話に笑い過ぎて畳の上に粗相をしてしまい、座が立てなくなって泣き出してしまったことから始めて、囲いもの時代に、情人と逃げ出して、旦那におふくろを人質にとられた話や、もはや抱妓かかえっこの二人三人も置くような看板ぬしになってからも、内実の苦しみは、五円の現金を借りるために、横浜往復十二円の月末払いの俥に乗って行ったことや、彼女は相手の若い妓たちを笑いでへとへとに疲らせずにはかないまで、話の筋は同じでも、趣向は変えて、その迫り方は彼女にものがつき、われ知らずに魅惑の爪を相手の女に突き立てて行くように見える。 若さを嫉妬しっとして、老いが狡猾こうかつな方法で巧みに責めさいなんでいるようにさえ見える。

若い芸妓たちは、とうとう髪を振り乱して、両脇腹を押えあえいでいうのだった。

ねえさん、頼むからもう止してよ。 この上笑わせられたら死んでしまう」

老妓は、生きてる人のことは決して語らないが、故人で馴染なじみのあった人については一皮いた彼女独特の観察を語った。 それ等の人の中には思いがけない素人や芸人もあった。

中国の名優の梅蘭芳メイランファンが帝国劇場に出演しに来たとき、その肝煎きもいりをした某富豪に向って、老妓は「費用はいくらかかってもかまいませんから、一度のおりをつくって欲しい」と頼み込んで、その富豪になだめ返されたという話が、嘘か本当か、彼女の逸話の一つになっている。

笑い苦しめられた芸妓の一人が、その復讐のつもりもあって

「姐さんは、そのとき、銀行の通帳を帯揚げから出して、お金ならこれだけありますと、その方に見せたというが、ほんとうですか」とく。

すると、彼女は

「ばかばかしい。 子供じゃあるまいし、帯揚げのなんのって……」

こどものようになって、ぷんぷん怒るのである。 その真偽はとにかく、彼女からこういううぶな態度を見たいためにも、若い女たちはしばしば訊いた。

「だがね。 おまえさんたち」と小そのはすべてを語ったのちにいう、「何人男を代えてもつづまるところ、たった一人の男を求めているに過ぎないのだね。 いまこうやって思い出して見て、この男、あの男と部分々々にかれるものの残っているところは、その求めている男の一部一部の切れはしなのだよ。 だから、どれもこれも一人では永くは続かなかったのさ」

「そして、その求めている男というのは」と若い芸妓たちは訊き返すと

「それがはっきり判れば、苦労なんかしやしないやね」それは初恋の男のようでもあり、また、この先、見つかって来る男かも知れないのだと、彼女は日常生活の場合の憂鬱な美しさを生地で出してった。

「そこへ行くと、堅気さんの女はうらやましいねえ。 親がきめてくれる、生涯ひとりの男を持って、何も迷わずに子供をもうけて、その子供の世話になって死んで行く」

序章-章なし
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老妓抄 - 情報

老妓抄

ろうぎしょう

文字数 15,488文字

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底本 老妓抄

青空情報


底本:「老妓抄」新潮文庫、新潮社
   1950(昭和25)年4月30日発行
   1968(昭和43)年3月20日17刷改版
   1998(平成10)年1月15日52刷
入力:佐藤律子
校正:大野晋
1999年5月5日公開
2005年9月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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