アインシュタインの教育観
著者:寺田寅彦
アインシュタインのきょういくかん - てらだ とらひこ
文字数:8,814 底本発行年:1997
近頃パリに居る知人から、アレキサンダー・モスコフスキー著『アインシュタイン』という書物を送ってくれた。 「停車場などで売っている俗書だが、退屈しのぎに……」と断ってよこしてくれたのである。
欧米における昨今のアインシュタインの盛名は非常なもので、彼の名や「相対原理」という言葉などが色々な第二次的な意味の流行語になっているらしい。
ロンドンからの便りでは、新聞や通俗雑誌くらいしか売っていない店先にも、ちゃんとアインシュタインの著書(英訳)だけは並べてあるそうである。
新聞の漫画を見ていると、野良のむすこが
モスコフスキーとはどういう人か私は知らない。
ある人の話ではジャーナリストらしい。
自身の序文にもそうらしく見える事が書いてある。
いずれにしても著述家として多少認められ、相当な学識もあり、科学に対してもかなりな理解を
この人のアインシュタインに対する関係は、一見ボスウェルのジョンソン、ないしエッカーマンのゲーテに対するようなものかもしれない。
彼自身も後者の類例をある程度まで承認している。
「
時々アインシュタインに会って雑談をする機会があるので、その時々の談片を題目とし、それの注釈や祖述、あるいはそれに関する評論を書いたものが
一体人の談話を聞いて正当にこれを伝えるという事は、それが精密な科学上の定理や方則でない限り、厳密に云えばほとんど不可能なほど困難な事である。 たとえ言葉だけは精密に書き留めても、その時の顔の表情や声のニュアンスは全然失われてしまう。 それだからある人の云った事を、その外形だけ正しく伝えることによって、話した本人を他人の前に陥れることも揚げることも勝手に出来る。 これは無責任ないし悪意あるゴシップによって日常行われている現象である。
それでこの書物の内容も結局はモスコフスキーのアインシュタイン観であって、それを私が伝えるのだから、更に一層アインシュタインから遠くなってしまう、甚だ心細い訳である。 しかし結局「人」の真相も相対性のものかもしれないから、もしそうだとすると、この一篇の記事もやはり一つの「真」の相かもしれない。 そうでない場合でも、何かしら考える事の種子くらいにはならない事はあるまい。
余談はさておき、この書物の一章にアインシュタインの教育に関する意見を紹介論評したものがある。 これは多くの人に色々な意味で色々な向きの興味があると思われるから、その中から若干の要点だけをここに紹介したいと思う。 アインシュタイン自身の言葉として出ている部分はなるべく忠実に訳するつもりである。 これに対する著者の論議はわざと大部分を省略するが、しかし彼の面目を伝える種類の記事は保存することにする。
アインシュタインはヘルムホルツなどと反対で講義のうまい型の学者である。 のみならず講義講演によって人に教えるという事に興味と熱心をもっているそうである。 それで学生や学者に対してのみならず、一般人の知識慾を満足させる事を煩わしく思わない。 例えば労働者の集団に対しても、分りやすい講演をやって聞かせるとある。 そんな風であるから、ともかくも彼が教育という事に無関心な仙人肌でない事は想像される。
アインシュタインの考えでは、若い人の自然現象に関する洞察の眼を開けるという事が最も大切な事であるから、従って実科教育を十分に与えるために、古典的な語学のみならず「遠慮なく云えば」語学の教育などは幾分犠牲にしても惜しくないという考えらしい。
これについて持出された So viele Sprachen einer versteht, so viele Male ist er Mensch. というカール五世の言葉に対して彼は、「
「人間は『鋭敏に反応する』(subtil zu reagieren)ように教育されなければならない。 云わば『精神的の筋肉』(geistige Muskeln)を得てこれを養成しなければならない。
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アインシュタインの教育観 - 情報
青空情報
底本:「寺田寅彦全集 第六巻」岩波書店
1997(平成9)年5月6日発行
入力:Nana ohbe
校正:浅原庸子
2004年12月13日作成
2005年10月26日修正
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