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孔乙己

著者:魯迅

こういっき - ろじん

文字数:4,264 底本発行年:1932
著者リスト:
著者魯迅
翻訳者井上 紅梅
底本: 魯迅全集
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序章-章なし

魯鎮ろちんの酒場の構えは他所よそと違っていずれも皆、曲尺形かねじゃくがた大櫃台おおデスクを往来へ向けて据え、櫃台デスクの内側には絶えず湯を沸かしておき、燗酒がすぐでも間に合うようになっている。 仕事をする人達は正午ひるの休みや夕方の手終てじまいにいちいち四文銭を出しては茶碗酒を一杯買い、櫃台デスクもたれて熱燗の立飲みをする。 ――これは二十年前のことで、今では値段が上って一碗十文になった。 ――もしモウ一文出しても差支えなければ、筍の塩漬や茴香豆ういきょうまめの皿盛を取ることが出来る。 もし果して十何文かを足し前すれば、なまぐさの方の皿盛りが取れるんだが、こういうお客様は大抵袢天著はんてんぎの方だからなかなかそんな贅沢はしない。 中には身装みなりのぞろりとした者などあって、店に入るとすぐに隣接した別席に著き、酒を命じ菜を命じ、ちびりちびりと飲んでる者もある。

わたしは十二の歳から村の入口の咸享酒店かんこうしゅてんの小僧になった。 番頭さんの被仰おっしゃるには、こいつは、見掛けが野呂間のろまだから上客のそばへは出せない。 店先の仕事をさせよう。 店先の袢天著は取付き易いが、わけのわからぬことをくどくど喋舌しゃべり、漆濃しつこく絡みつく奴が少くない。 彼等は人の手許をじろりと見たがる癖がある。 老酒ラオチュを甕の中から汲み出すのを見て、徳利の底に水が残っていやしないか否かを見て、徳利を熱湯の中に入れるところまで見届けて、そこでようやく安心する。 こういう厳しい監視の下には、水を交ぜることなんかとても出来るものではない。 だから二三日経つと番頭さんは「こいつは役に立たない」と言ったが、幸いに周旋人の顔が利き、断りかねたものと見え、改めてお燗番のような詰らぬ仕事を受持たされることになった。 わたしはそれから日がな一日櫃台デスクの内側でこの仕事だけを勤めていたので、縮尻しくじりを仕出かすことのないだけ、それだけで単調で詰らなかった。 番頭さんはいつも仏頂面していなさるし、お客様は一向構ってくれないし、これじゃいくらわたしだって活溌になり得るはずがない。 ただ孔乙己こういっきが店に来た時だけ初めて笑声を出すことが出来たので、だから今だにこの人を覚えている。

孔乙己は立飲みの方でありながら長衫ながぎを著た唯一の人であった。 彼は身の長けがはなはだ高く、顔色が青白く、皺の間にいつも傷痕が交っていて胡麻塩鬚が蓬々ぼうぼうと生えていた。 著物は汚れ腐って、ツギハギもせず洗濯もせず、十何年も一つものでおっとおしているようだ。 彼の言葉は全部が漢文で、口から出るのは「之乎者也ツーフーツエイエ」ばかりだから、人が聞けば解るような解らぬような変なもので、その姓氏が孔というのみで名前はよく知られなかったが、ある人が紅紙の上に「上大人じょうたいじん孔乙己」と書いてから、これもまた解るような解らぬようなあいまいの中に彼のために一つの確たる仇名が出来て、孔乙己と呼ばれるようになった。

孔乙己が店に来ると、そこにいる飲手は皆笑い出した。

「孔乙己、お前の顔にまた一つ傷が殖えたね」

とその中の一人が言った。 孔は答えず九文の大銭を櫃台デスクの上に並べ

「酒を二合けてくれ。 それから豆を一皿」

「馬鹿に景気がいいぜ。 これやテッキリ盗んで来たに違いない」

とわざと大声出して前の一人が言うと、孔乙己は眼玉を剥き出し

「汝はなんすれぞ斯くの如くくうって人の清白を汚す」

「何、清白だと? 乃公おれはお前が家の書物を盗んで吊し打ちになったのをこないだ見たばかりだ」

孔は顔を真赤にして、額の上に青筋を立て

窃書せっしょは盗みの数にらない。 窃書は読書人の為す事で盗みの数に入るべきことではない」

そうして後に続く言葉はとても変梃なもので、「君子固より窮す」とか「者ならん」の類だからみなの笑いを引起し店中にわかに景気づいた。

人の噂では、孔乙己は書物をたくさん読んだ人だが、学校に入りそこない、無職で暮しているうちにだんだん貧乏して、乞食になりかかったが、幸いに手すじがよく字が旨く書けたので、あちこちで書物の浄写を頼まれ、飯の種にありつくことが出来た。 ところが彼には一つの悪い癖があって、酒が大好きで飲みだすと怠け出し、注文主も書物も紙も何もかも、たちまちのうちに無くしてしまう。 こういうことがたびたびあって、しまいには字を書いてくれという人さえ無くなった。

序章-章なし
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孔乙己 - 情報

孔乙己

こういっき

文字数 4,264文字

著者リスト:
著者魯迅
翻訳者井上 紅梅

底本 魯迅全集

青空情報


底本:「魯迅全集」改造社
   1932(昭和7)年11月18日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「彼奴→あいつ 或(る)→ある 大方→おおかた 〜置き→〜おき 曾て→かつて 位→ぐらい 〜呉れ→〜くれ 此奴→こいつ 此→この 偖て→さて 暫く→しばらく 仕舞う→しまう 終い→じまい 随分→ずいぶん 其→その 沢山→たくさん 只→ただ 忽ち→たちまち 多分→たぶん 何処→どこ 迚も→とても 中々→なかなか 〜に取って→〜にとって 筈→はず 甚だ→はなはだ 程→ほど 又・亦→また 未だ→まだ 見る見る→みるみる 若し→もし」
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(上村要)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2005年5月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:孔乙己

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