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桜桃

著者:太宰治

おうとう - だざい おさむ

文字数:4,813 底本発行年:1989
著者リスト:
著者太宰 治
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序章-章なし

われ、山にむかいて、目をぐ。

――詩篇、第百二十一。

子供より親が大事、と思いたい。 子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。 少くとも、私の家庭においては、そうである。 まさか、自分が老人になってから、子供に助けられ、世話になろうなどという図々しいむしのよい下心は、まったく持ち合わせてはいないけれども、この親は、その家庭において、常に子供たちのご機嫌きげんばかり伺っている。 子供、といっても、私のところの子供たちは、皆まだひどく幼い。 長女は七歳、長男は四歳、次女は一歳である。 それでも、既にそれぞれ、両親を圧倒し掛けている。 父と母は、さながら子供たちの下男下女の趣きを呈しているのである。

夏、家族全部三畳間に集まり、大にぎやか、大混乱の夕食をしたため、父はタオルでやたらに顔の汗をき、

「めし食って大汗かくもげびた事、と柳多留やなぎだるにあったけれども、どうも、こんなに子供たちがうるさくては、いかにお上品なおとうさんといえども、汗が流れる」

と、ひとりぶつぶつ不平を言い出す。

母は、一歳の次女におっぱいを含ませながら、そうして、お父さんと長女と長男のお給仕をするやら、子供たちのこぼしたものを拭くやら、拾うやら、鼻をかんでやるやら、八面六臂はちめんろっぴのすさまじい働きをして、

「お父さんは、お鼻に一ばん汗をおかきになるようね。 いつも、せわしくお鼻を拭いていらっしゃる」

父は苦笑して、

「それじゃ、お前はどこだ。 内股うちまたかね?」

「お上品なお父さんですこと」

「いや、何もお前、医学的な話じゃないか。 上品も下品も無い」

「私はね」

と母は少しまじめな顔になり、

「この、お乳とお乳のあいだに、……涙の谷、……」

涙の谷。

父は黙して、食事をつづけた。

私は家庭にっては、いつも冗談を言っている。 それこそ「心には悩みわずらう」事の多いゆえに、「おもてには快楽けらく」をよそわざるを得ない、とでも言おうか。 いや、家庭に在る時ばかりでなく、私は人に接する時でも、心がどんなにつらくても、からだがどんなに苦しくても、ほとんど必死で、楽しい雰囲気ふんいきつくる事に努力する。 そうして、客とわかれた後、私は疲労によろめき、お金の事、道徳の事、自殺の事を考える。 いや、それは人に接する場合だけではない。 小説を書く時も、それと同じである。 私は、悲しい時に、かえって軽い楽しい物語の創造に努力する。 自分では、もっとも、おいしい奉仕のつもりでいるのだが、人はそれに気づかず、太宰だざいという作家も、このごろは軽薄である、面白さだけで読者を釣る、すこぶる安易、と私をさげすむ。

人間が、人間に奉仕するというのは、悪い事であろうか。 もったいぶって、なかなか笑わぬというのは、い事であろうか。

つまり、私は、糞真面目くそまじめで興覚めな、気まずい事に堪え切れないのだ。 私は、私の家庭においても、絶えず冗談を言い、薄氷を踏む思いで冗談を言い、一部の読者、批評家の想像を裏切り、私の部屋の畳は新しく、机上は整頓せいとんせられ、夫婦はいたわり、尊敬し合い、夫は妻を打った事など無いのは無論、出て行け、出て行きます、などの乱暴な口争いした事さえ一度も無かったし、父も母も負けずに子供を可愛がり、子供たちも父母に陽気によくなつく。

序章-章なし
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桜桃 - 情報

桜桃

おうとう

文字数 4,813文字

著者リスト:
著者太宰 治

底本 人間失格・桜桃

青空情報


底本:角川文庫「人間失格・桜桃」角川書店
   1989(平成元)年4月10日初版発行
入力:高橋美奈子
校正:瀬戸さえ子
1999年4月8日公開
2004年2月23日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:桜桃

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