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彼は昔の彼ならず

著者:太宰治

かれはむかしのかれならず - だざい おさむ

文字数:28,155 底本発行年:1975
著者リスト:
著者太宰 治
底本: 太宰治全集1
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序章-章なし

君にこの生活を教えよう。 知りたいとならば、僕の家のものほし場まで来るとよい。 其処そこでこっそり教えてあげよう。

僕の家のものほし場は、よく眺望ちょうぼうがきくと思わないか。 郊外の空気は、深くて、しかも軽いだろう? 人家もまばらである。 気をつけ給え。 君の足もとの板は、腐りかけているようだ。 もっとこっちへ来るとよい。 春の風だ。 こんな工合いに、耳朶みみたぶをちょろちょろとくすぐりながら通るのは、南風の特徴である。

見渡したところ、郊外の家の屋根屋根は、不揃いだと思わないか。 君はきっと、銀座か新宿のデパアトの屋上庭園の木柵によりかかり、頬杖ついて、ちまたの百万の屋根屋根をぼんやり見おろしたことがあるにちがいない。 巷の百万の屋根屋根は、皆々、同じ大きさで同じ形で同じ色あいで、ひしめき合いながらかぶさりかさなり、はては黴菌ばいきん車塵しゃじんとでうす赤くにごらされた巷のかすみのなかにその端を沈没させている。 君はその屋根屋根のしたの百万の一律な生活を思い、眼をつぶってふかい溜息を吐いたにちがいないのだ。 見られるとおり、郊外の屋根屋根は、それと違う。 一つ一つが、その存在の理由を、ゆったりと主張しているようではないか。 あの細長い煙突は、桃の湯という銭湯屋のものであるが、青い煙を風のながれるままにおとなしく北方へなびかせている。 あの煙突の真下の赤い西洋がわらは、なんとかいう有名な将軍のものであって、あのへんから毎夜、謡曲のしらべが聞えるのだ。 赤い甍からしいの並木がうねうねと南へ伸びている。 並木のつきたところに白壁が鈍く光っている。 質屋の土蔵である。 三十歳を越したばかりの小柄で怜悧れいりな女主人が経営しているのだ。 このひとは僕と路で行き逢っても、僕の顔を見ぬふりをする。 挨拶を受けた相手の名誉を顧慮しているのである。 土蔵の裏手、翼の骨骼こっかくのようにばさと葉をひろげているきたならしい樹木が五六ぽん見える。 あれは棕梠しゅろである。 あの樹木に覆われているひくいトタン屋根は、左官屋のものだ。 左官屋はいま牢のなかにいる。 細君をぶち殺したのである。 左官屋の毎朝の誇りを、細君が傷つけたからであった。 左官屋には、毎朝、牛乳を半合ずつ飲むという贅沢ぜいたくな楽しみがあったのに、その朝、細君があやまって牛乳の瓶をわった。 そうしてそれをさほどの過失ではないと思っていた。 左官屋には、それがむらむらうらめしかったのである。 細君はその場でいきをひきとり、左官屋は牢へ行き、左官屋の十歳ほどの息子が、このあいだ駅の売店のまえで新聞を買って読んでいた。 僕はその姿を見た。 けれども、僕の君に知らせようとしている生活は、こんな月並みのものでない。

こっちへ来給え。 このひがしの方面の眺望は、また一段とよいのだ。 人家もいっそうまばらである。

序章-章なし
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彼は昔の彼ならず - 情報

彼は昔の彼ならず

かれはむかしのかれならず

文字数 28,155文字

著者リスト:
著者太宰 治

底本 太宰治全集1

親本 筑摩全集類聚版太宰治全集

青空情報


底本:「太宰治全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年8月30日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:丹羽倫子
1999年9月12日公開
2005年10月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:彼は昔の彼ならず

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