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十二月八日

著者:太宰治

じゅうにがつようか - だざい おさむ

文字数:7,543 底本発行年:1975
著者リスト:
著者太宰 治
底本: 太宰治全集5
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序章-章なし

きょうの日記は特別に、ていねいに書いて置きましょう。 昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。 もう百年ほどって日本が紀元二千七百年の美しいお祝いをしている頃に、私のの日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしていたという事がわかったら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。 だから文章はたいへん下手へたでも、嘘だけは書かないように気を附ける事だ。 なにせ紀元二千七百年を考慮にいれて書かなければならぬのだから、たいへんだ。 でも、あんまり固くならない事にしよう。 主人の批評にれば、私の手紙やら日記やらの文章は、ただ真面目まじめなばかりで、そうして感覚はひどく鈍いそうだ。 センチメントというものが、まるで無いので、文章がちっとも美しくないそうだ。 本当に私は、幼少の頃から礼儀にばかりこだわって、心はそんなに真面目でもないのだけれど、なんだかぎくしゃくして、無邪気にはしゃいで甘える事も出来ず、損ばかりしている。 慾が深すぎるせいかも知れない。 なおよく、反省をして見ましょう。

紀元二千七百年といえば、すぐに思い出す事がある。 なんだか馬鹿らしくて、おかしい事だけれど、先日、主人のお友だちの伊馬さんが久し振りで遊びにいらっしゃって、その時、主人と客間で話合っているのを隣部屋で聞いてき出した。

「どうも、この、紀元二千七百年しちひゃくねんのお祭りの時には、二千七百年ななひゃくねんと言うか、あるいは二千七百年しちひゃくねんと言うか、心配なんだね、非常に気になるんだね。 僕は煩悶はんもんしているのだ。 君は、気にならんかね。」

と伊馬さん。

「ううむ。」 と主人は真面目に考えて、「そう言われると、非常に気になる。」

「そうだろう、」と伊馬さんも、ひどく真面目だ。 「どうもね、ななひゃくねん、というらしいんだ。 なんだか、そんな気がするんだ。 だけど僕の希望をいうなら、しちひゃくねん、と言ってもらいたいんだね。 どうも、ななひゃく、では困る。 いやらしいじゃないか。 電話の番号じゃあるまいし、ちゃんと正しい読みかたをしてもらいたいものだ。 何とかして、その時は、しちひゃく、と言ってもらいたいのだがねえ。」

と伊馬さんは本当に、心配そうな口調である。

「しかしまた、」主人は、ひどくもったい振って意見を述べる。 「もう百年あとには、しちひゃくでもないし、ななひゃくでもないし、全く別な読みかたも出来ているかも知れない。 たとえば、ぬぬひゃく、とでもいう――。」

私は噴き出した。 本当に馬鹿らしい。 主人は、いつでも、こんな、どうだっていいような事を、まじめにお客さまと話合っているのです。 センチメントのあるおかたは、ちがったものだ。 私の主人は、小説を書いて生活しているのです。 なまけてばかりいるので収入も心細く、その日暮しの有様です。 どんなものを書いているのか、私は、主人の書いた小説は読まない事にしているので、想像もつきません。 あまり上手でないようです。

序章-章なし
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十二月八日 - 情報

十二月八日

じゅうにがつようか

文字数 7,543文字

著者リスト:
著者太宰 治

底本 太宰治全集5

親本 筑摩全集類聚版太宰治全集

青空情報


底本:「太宰治全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1989(平成元)年1月31日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:高橋真也
2000年4月1日公開
2005年10月28日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:十二月八日

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