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茶わんの湯

著者:寺田寅彦

ちゃわんのゆ - てらだ とらひこ

文字数:3,944 底本発行年:1985
著者リスト:
著者寺田 寅彦
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序章-章なし

ここに茶わんが一つあります。 中には熱い湯がいっぱいはいっております。 ただそれだけではなんのおもしろみもなく不思議もないようですが、よく気をつけて見ていると、だんだんにいろいろの微細なことが目につき、さまざまの疑問が起こって来るはずです。 ただ一ぱいのこの湯でも、自然の現象を観察し研究することの好きな人には、なかなかおもしろい見物みものです。

第一に、湯の面からは白い湯げが立っています。 これはいうまでもなく、熱い水蒸気が冷えて、小さな滴になったのが無数に群がっているので、ちょうど雲や霧と同じようなものです。 この茶わんを、縁側の日向ひなたへ持ち出して、日光を湯げにあて、向こう側に黒い布でもおいてすかして見ると、滴の、粒の大きいのはちらちらと目に見えます。 場合により、粒があまり大きくないときには、日光にすかして見ると、湯げの中に、にじのような、赤や青の色がついています。 これは白い薄雲が月にかかったときに見えるのと似たようなものです。 この色についてはお話しすることがどっさりありますが、それはまたいつか別のときにしましょう。

すべて全く透明なガス体の蒸気が滴になる際には、必ず何かその滴のしんになるものがあって、そのまわりに蒸気が凝ってくっつくので、もしそういうしんがなかったら、霧は容易にできないということが学者の研究でわかって来ました。 そのしんになるものは通例、顕微鏡でも見えないほどの、非常に細かいちりのようなものです、空気中にはそれが自然にたくさん浮遊しているのです。 空中に浮かんでいた雲が消えてしまった跡には、今言った塵のようなものばかりが残っていて、飛行機などで横からすかして見ると、ちょうど煙が広がっているように見えるそうです。

茶わんから上がる湯げをよく見ると、湯が熱いかぬるいかが、おおよそわかります。 締め切ったへやで、人の動き回らないときだとことによくわかります。 熱い湯ですと湯げの温度が高くて、周囲の空気に比べてよけいに軽いために、どんどん盛んに立ちのぼります。 反対に湯がぬるいと勢いが弱いわけです。 湯の温度を計る寒暖計があるなら、いろいろ自分でためしてみるとおもしろいでしょう。 もちろんこれは、まわりの空気の温度によっても違いますが、おおよその見当はわかるだろうと思います。

次に湯げが上がるときにはいろいろのうずができます。 これがまたよく見ているとなかなかおもしろいものです。 線香の煙でもなんでも、煙の出るところからいくらかの高さまではまっすぐに上りますが、それ以上は煙がゆらゆらして、いくつものうずになり、それがだんだんに広がり入り乱れて、しまいに見えなくなってしまいます。 茶わんの湯げなどの場合だと、もう茶わんのすぐ上から大きく渦ができて、それがかなり早く回りながら上って行きます。

これとよく似た渦で、もっと大きなのが庭の上なぞにできることがあります。 春先などのぽかぽか暖かい日には、前日雨でもふって土のしめっているところへ日光が当たって、そこから白い湯げが立つことがよくあります。 そういうときによく気をつけて見ていてごらんなさい。 湯げは、縁の下や垣根かきねのすきまから冷たい風が吹き込むたびに、横になびいてはまた立ち上ります。 そして時々大きな渦ができ、それがちょうど竜巻たつまきのようなものになって、地面から何尺もある、高い柱の形になり、非常な速さで回転するのを見ることがあるでしょう。

茶わんの上や、庭先で起こる渦のようなもので、もっと大仕掛けなものがあります。 それは雷雨のときに空中に起こっている大きな渦です。 陸地の上のどこかの一地方が日光のために特別にあたためられると、そこだけは地面から蒸発する水蒸気が特に多くなります。 そういう地方のそばに、割合に冷たい空気におおわれた地方がありますと、前に言った地方の、暖かい空気が上がって行くあとへ、入り代わりにまわりの冷たい空気が下から吹き込んで来て、大きな渦ができます。 そしてひょうがふったり雷が鳴ったりします。

これは茶わんの場合に比べると仕掛けがずっと大きくて、渦の高さも一里とか二里とかいうのですからそういう、いろいろな変わったことが起こるのですが、しかしまた見方によっては、茶わんの湯とこうした雷雨とはよほどよく似たものと思ってもさしつかえありません。 もっとも雷雨のでき方は、今言ったような場合ばかりでなく、だいぶ模様のちがったのもありますから、どれもこれもみんな茶わんの湯に比べるのは無理ですがただ、ちょっと見ただけではまるで関係のないような事がらが、原理の上からはお互いによく似たものに見えるという一つの例に、雷をあげてみたのです。

湯げのお話はこのくらいにして、今度は湯のほうを見ることにしましょう。

白い茶わんにはいっている湯は、日陰で見ては別に変わった模様も何もありませんが、それを日向ひなたへ持ち出して直接に日光を当て、茶わんの底をよく見てごらんなさい。 そこには妙なゆらゆらした光った線や薄暗い線が不規則な模様のようになって、それがゆるやかに動いているのに気がつくでしょう。 これは夜電燈の光をあてて見ると、もっとよくあざやかに見えます。

序章-章なし
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茶わんの湯 - 情報

茶わんの湯

ちゃわんのゆ

文字数 3,944文字

著者リスト:
著者寺田 寅彦

底本 日本の名随筆33 水

青空情報


底本:「日本の名随筆33 水」井上靖編、作品社
   1985(昭和60)年7月25日第1刷発行
※底本の誤記等を確認するにあたり、「寺田寅彦全集」(岩波書店)を参照しました。
入力:砂場清隆
校正:田中敬三
2000年10月3日公開
2003年10月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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