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笑われた子

著者:横光利一

わらわれたこ - よこみつ りいち

文字数:2,825 底本発行年:1981
著者リスト:
著者横光 利一
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序章-章なし

吉をどのような人間に仕立てるかということについて、吉の家では晩餐ばんさん後毎夜のように論議せられた。 またその話が始った。 吉は牛にやる雑炊ぞうすいきながら、ひとり柴の切れ目からぶくぶく出る泡を面白そうに眺めていた。

「やはり吉を大阪へやる方が好い。 十五年も辛抱しんぼうしたなら、暖簾のれんが分けてもらえるし、そうすりゃあそこだから直ぐに金ももうかるし。」

そう父親がいうのに母親はこう言った。

「大阪は水が悪いというから駄目駄目。 幾らお金を儲けても、早く死んだら何もならない。」

「百姓をさせば好い、百姓を。」

と兄は言った。

「吉は手工しゅこうが甲だから信楽しがらきへお茶碗造りにやるといいのよ。 あの職人さんほどいいお金儲けをする人はないっていうし。」

そう口を入れたのはませた姉である。

「そうだ、それも好いな。」

と父親は言った。

母親だけはいつまでも黙っていた。

吉は流しの暗い棚の上に光っている硝子ガラス酒瓶さかびんが眼につくと、庭へ降りていった。 そして瓶の口へ自分の口をつけて、仰向あおむいて立っていると、間もなくひと流れの酒のしずくが舌の上でひろがった。 吉は口を鳴らしてもう一度同じことをやってみた。 今度は駄目だった。 で、瓶の口へ鼻をつけた。

「またッ。」 と母親は吉をにらんだ。

吉は「へへへ。」 と笑って袖口そでぐちで鼻と口とをでた。

「吉をさかやの小僧にやると好いわ。」

姉がそういうと、父と兄は大きな声で笑った。

その夜である。 吉は真暗なはてしのない野の中で、口が耳まで裂けた大きな顔に笑われた。 その顔は何処どこか正月に見た獅子舞ししまいの獅子の顔に似ているところもあったが、吉を見て笑う時のほおの肉や殊に鼻のふくらはぎまでが、人間ひとのようにびくびくと動いていた。 吉は必死に逃げようとするのに足がどちらへでも折れ曲がって、ただ汗が流れるばかりで結局身体はもとの道の上から動いていなかった。 けれどもその大きな顔は、だんだん吉の方へ近よって来るのは来るが、さて吉をどうしようともせず、何時いつまでたってもただにやりにやりと笑っていた。 何を笑っているのか吉にも分からなかった。 がとにかく彼を馬鹿にしたような笑顔えがおであった。

翌朝、蒲団ふとんの上に坐って薄暗い壁を見詰みつめていた吉は、昨夜夢の中で逃げようとして藻掻もがいたときの汗を、まだかいていた。

その日、吉は学校で三度教師に叱られた。

最初は算術の時間で、仮分数を帯分数に直した分子の数をかれた時に黙っていると、

「そうれ見よ。 お前はさっきから窓ばかり眺めていたのだ。」

序章-章なし
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笑われた子 - 情報

笑われた子

わらわれたこ

文字数 2,825文字

著者リスト:
著者横光 利一

底本 日輪 春は馬車に乗って 他八篇

青空情報


底本:「日輪・春は馬車に乗って 他八篇」岩波文庫、岩波書店
   1981(昭和56)年8月17日第1刷発行
   1997(平成9)年5月15日第23刷発行
入力:大野晋
校正:伊藤祥
1999年7月9日公開
2003年10月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:笑われた子

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