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著者:横光利一

はえ - よこみつ りいち

文字数:3,503 底本発行年:1981
著者リスト:
著者横光 利一
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序章-章なし

真夏の宿場は空虚であった。 ただ眼の大きな一疋いっぴきの蠅だけは、薄暗いうまやすみ蜘蛛くもの巣にひっかかると、後肢あとあしで網を跳ねつつしばらくぶらぶらと揺れていた。 と、豆のようにぼたりと落ちた。 そうして、馬糞ばふんの重みに斜めに突き立っているわらの端から、裸体にされた馬の背中まであがった。

馬は一条ひとすじの枯草を奥歯にひっ掛けたまま、猫背ねこぜの老いた馭者ぎょしゃの姿を捜している。

馭者は宿場しゅくばの横の饅頭屋まんじゅうや店頭みせさきで、将棋しょうぎを三番さして負け通した。

に? 文句をいうな。 もう一番じゃ。」

すると、ひさしはずれた日の光は、彼の腰から、まるい荷物のような猫背の上へ乗りかかって来た。

宿場の空虚な場庭ばにわへ一人の農婦がけつけた。 彼女はこの朝早く、街につとめている息子から危篤の電報を受けとった。 それから露に湿しめった三里の山路やまみちを馳け続けた。

「馬車はまだかのう?」

彼女は馭者部屋をのぞいて呼んだが返事がない。

「馬車はまだかのう?」

ゆがんだ畳の上には湯飲みが一つ転っていて、中から酒色の番茶ばんちゃがひとりしずかに流れていた。 農婦はうろうろと場庭を廻ると、饅頭屋の横からまた呼んだ。

「馬車はまだかの?」

「先刻出ましたぞ。」

答えたのはその家の主婦である。

「出たかのう。 馬車はもう出ましたかのう。 いつ出ましたな。 もうちとよ来ると良かったのじゃが、もう出ぬじゃろか?」

農婦は性急な泣き声でそういううちに、早や泣き出した。 が、涙もかず、往還おうかんの中央に突き立っていてから、街の方へすたすたと歩き始めた。

「二番が出るぞ。」

猫背の馭者は将棋盤を見詰めたまま農婦にいった。 農婦は歩みを停めると、くるりと向き返ってその淡い眉毛まゆげを吊り上げた。

「出るかの。 直ぐ出るかの。 せがれが死にかけておるのじゃが、間に合わせておくれかの?」

桂馬けいまと来たな。」

「まアまア嬉しや。 街までどれほどかかるじゃろ。 いつ出しておくれるのう。」

序章-章なし
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蠅 - 情報

はえ

文字数 3,503文字

著者リスト:
著者横光 利一

底本 日輪 春は馬車に乗って 他八篇

青空情報


底本:「日輪・春は馬車に乗って 他八篇」岩波文庫、岩波書店
   1981(昭和56)年8月17日第1刷発行
   1997(平成9)年5月15日第23刷発行
入力:大野晋
校正:瀬戸さえ子
1999年7月9日公開
2003年10月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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