序章-章なし
一、西町奉行所
天保八年丁酉の歳二月十九日の暁方七つ時に、大阪西町奉行所の門を敲くものがある。
西町奉行所と云ふのは、大阪城の大手の方角から、内本町通を西へ行つて、本町橋に掛からうとする北側にあつた。
此頃はもう四年前から引き続いての飢饉で、やれ盗人、やれ行倒と、夜中も用事が断えない。
それにきのふの御用日に、月番の東町奉行所へ立会に往つて帰つてからは、奉行堀伊賀守利堅は何かひどく心せはしい様子で、急に西組与力吉田勝右衛門を呼び寄せて、長い間密談をした。
それから東町奉行所との間に往反して、けふ十九日にある筈であつた堀の初入式の巡見が取止になつた。
それから家老中泉撰司を以て、奉行所詰のもの一同に、夜中と雖、格別に用心するやうにと云ふ達しがあつた。
そこで門を敲かれた時、門番がすぐに立つて出て、外に来たものの姓名と用事とを聞き取つた。
門外に来てゐるのは二人の少年であつた。
一人は東組町同心吉見九郎右衛門の倅英太郎、今一人は同組同心河合郷左衛門の倅八十次郎と名告つた。
用向は一大事があつて吉見九郎右衛門の訴状を持参したのを、ぢきにお奉行様に差し出したいと云ふことである。
上下共何か事がありさうに思つてゐた時、一大事と云つたので、それが門番の耳にも相応に強く響いた。
門番は猶予なく潜門をあけて二人の少年を入れた。
まだ暁の白けた光が夜闇の衣を僅に穿つてゐる時で、薄曇の空の下、風の無い、沈んだ空気の中に、二人は寒げに立つてゐる。
英太郎は十六歳、八十次郎は十八歳である。
「お奉行様にぢきに差し上げる書付があるのだな。」
門番は念を押した。
「はい。
ここに持つてをります。」
英太郎が懐を指さした。
「お前がその吉見九郎右衛門の倅か。
なぜ九郎右衛門が自分で持つて来ぬのか。」
「父は病気で寝てをります。」
「一体東のお奉行所附のものの書付なら、なぜそれを西のお奉行所へ持つて来たのだい。」
「西のお奉行様にでなくては申し上げられぬと、父が申しました。」
「ふん。
さうか。」
門番は八十次郎の方に向いた。
「お前はなぜ附いて来たのか。」
「大切な事だから、間違の無いやうに二人で往けと、吉見のをぢさんが言ひ附けました。」
「ふん。
お前は河合と言つたな。
お前の親父様は承知してお前をよこしたのかい。」
「父は正月の二十七日に出た切、帰つて来ません。」
「さうか。」
門番は二人の若者に対して、こんな問答をした。
吉見の父が少年二人を密訴に出したので、門番も猜疑心を起さずに応対して、却つて運びが好かつた。
門番の聞き取つた所を、当番のものが中泉に届ける。
中泉が堀に申し上げる。