渡り鳥
著者:太宰治
わたりどり - だざい おさむ
文字数:6,647 底本発行年:1975
おもてには
――ダンテ・アリギエリ
晩秋の夜、音楽会もすみ、日比谷公会堂から、おびただしい数の
「山名先生じゃ、ありませんか?」
呼びかけた一羽の烏は、無帽
「そうですが、……」
呼びかけられた烏は中年の、太った紳士である。 青年にかわまず、有楽町のほうに向ってどんどん歩きながら、
「あなたは?」
「僕ですか?」
青年は蓬髪を
「まあ、
「何かご用ですか?」
「ファンなんです。 先生の音楽評論のファンなんです。 このごろ、あまりお書きにならぬようですね。」
「書いていますよ。」
しまった! と青年は、暗闇の中で口をゆがめる。
この青年は、東京の或る大学に籍を有しているのだが、制帽も制服も持っていない。
そうして、ジャンパーと、それから
「音楽は、モオツアルトだけですね。」
お世辞の失敗を取りかえそうとして、山名先生のモオツアルト
「そうとばかりも言えないが、……」
しめた! 少しご
青年は図に乗り、
「近代音楽の堕落は、僕は、ベートーヴェンあたりからはじまっていると思うのです。 音楽が人間の生活に向き合って対決を迫るとは、邪道だと思うんです。 音楽の本質は、あくまでも生活の伴奏であるべきだと思うんです。 僕は今夜、久し振りにモオツアルトを聞き、音楽とは、こんなものだとつくづく、……」
「僕は、ここから乗るがね。」
有楽町駅である。
「ああ、そうですか、失礼しました。 今夜は、先生とお話が出来て、うれしかったです。」
ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、青年は、軽くお辞儀をして、先生と別れ、くるりと廻れ右をして銀座のほうに向う。
ベートーヴェンを聞けば、ベートーヴェンさ。 モオツアルトを聞けば、モオツアルトさ。 どっちだっていいじゃないか。