惜別
著者:太宰治
せきべつ - だざい おさむ
文字数:91,805 底本発行年:1975
これは日本の東北地方の某村に開業している一老医師の手記である。
先日、この地方の新聞社の記者だと称する
「明治三十七年の入学ではなかったかしら。」
と記者は、胸のポケットから小さい
「たしか、その頃と記憶しています。」 私は、記者のへんに落ちつかない態度に不安を感じた。 はっきり言えば、私にはこの新聞記者との対談が、終始あまり愉快でなかったのである。
「そいつあ、よかった。」
記者は
周樹人
と書かれてある。
「存じて居ります。」
「そうだろう。」
とその記者はいかにも得意そうに、「あなたとは同級生だったわけだ。
そうして、その人が、のちに、中国の大文豪、
「そういう事も存じて居りますが、でも、あの周さんが、のちにあんな有名なお方にならなくても、ただ私たちと一緒に仙台で学び遊んでいた頃の周さんだけでも、私は尊敬して居ります。」
「へえ。」 と記者は眼を丸くして驚いたようなふうをして、「若い頃から、そんなに偉かったのかねえ。 やはり、天才的とでもいったような。」
「いいえ、そんな工合ではなくて、ありふれた言い方ですが、それこそ素直な、本当に、いい人でございました。」
「たとえば、どんなところが?」と、記者は一
「いいえ、別にそう。」
私のほうで、ひどく憂鬱になって来た。
「変ったところもございませんでした。
なんと申し上げたらいいのでしょうか、非常に
「いや、そんなに用心しなくてもいいんだ。
私は何も魯迅の悪口を書こうと思っているのじゃないし、いまも言ったように、東洋民族の総親和のために、これを新年の読物にしようと思っているのですからね、
「いいえ、決して、そんな、用心なんかしていませぬのですが。」 その日は、なぜだか、気が重かった。 「何せもう、四十年も昔の事で、決して、そんな、ごまかす積りはないのですけれども、私のような俗人のたわいない記憶など果してお役に立つものかどうか。 ――」