清貧譚
著者:太宰治
せいひんたん - だざい おさむ
文字数:9,350 底本発行年:1989
以下に記すのは、かの聊斎志異の中の一篇である。 原文は、千八百三十四字、之を私たちの普通用ゐてゐる四百字詰の原稿用紙に書き写しても、わづかに四枚半くらゐの、極く短い小片に過ぎないのであるが、読んでゐるうちに様々の空想が湧いて出て、優に三十枚前後の好短篇を読了した時と同じくらゐの満酌の感を覚えるのである。 私は、この四枚半の小片にまつはる私の様々の空想を、そのまま書いてみたいのである。 このやうな仕草が果して創作の本道かどうか、それには議論もある事であらうが、聊斎志異の中の物語は、文学の古典といふよりは、故土の口碑に近いものだと私は思つてゐるので、その古い物語を骨子として、二十世紀の日本の作家が、不逞の空想を案配し、かねて自己の感懐を託し以て創作也と読者にすすめても、あながち深い罪にはなるまいと考へられる。 私の新体制も、ロマンチシズムの発掘以外には無いやうだ。
むかし江戸、向島あたりに
「いいお天気ですね。」 と言つた。
「いいお天気です。」 才之助も賛成した。
少年は馬をひいて、そろそろ歩き出した。 才之助も、少年と肩をならべて歩いた。 よく見ると少年は、武家の育ちでも無いやうであるが、それでも人品は、どこやら典雅で服装も小ざつぱりしてゐる。 物腰が、鷹揚である。
「江戸へ、おいでになりますか。」 と、ひどく馴れ馴れしい口調で問ひかけて来るので、才之助もそれにつられて気をゆるし、
「はい、江戸へ帰ります。」
「江戸のおかたですね。 どちらからのお帰りですか。」 旅の話は、きまつてゐる。 それからそれと問ひ答へ、つひに才之助は、こんどの旅行の目的全部を語つて聞かせた。 少年は急に目を輝かせて、
「さうですか。 菊がお好きとは、たのもしい事です。