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カインの末裔

著者:有島武郎

カインのまつえい - ありしま たけお

文字数:31,879 底本発行年:1918
著者リスト:
著者有島 武郎
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序章-章なし

(一)

長い影を地にひいて、痩馬やせうま手綱たづなを取りながら、れは黙りこくって歩いた。 大きな汚い風呂敷包と一緒に、章魚たこのように頭ばかり大きい赤坊あかんぼうをおぶった彼れの妻は、少し跛脚ちんばをひきながら三、四間も離れてその跡からとぼとぼとついて行った。

北海道の冬は空までせまっていた。 蝦夷富士えぞふじといわれるマッカリヌプリのふもとに続く胆振いぶりの大草原を、日本海から内浦湾うちうらわんに吹きぬける西風が、打ち寄せる紆濤うねりのように跡から跡から吹き払っていった。 寒い風だ。 見上げると八合目まで雪になったマッカリヌプリは少し頭を前にこごめて風に歯向いながら黙ったまま突立っていた。 昆布岳こんぶだけの斜面に小さく集った雲の塊を眼がけて日は沈みかかっていた。 草原の上には一本の樹木も生えていなかった。 心細いほど真直まっすぐな一筋道を、彼れと彼れの妻だけが、よろよろと歩く二本の立木のように動いて行った。

二人は言葉を忘れた人のようにいつまでも黙って歩いた。 馬がいばりをする時だけ彼れは不性無性ふしょうぶしょうたちどまった。 妻はその暇にようやく追いついてせなかの荷をゆすり上げながら溜息をついた。 馬が溺りをすますと二人はまた黙って歩き出した。

「ここらおやじ(熊の事)が出るずら」

四里にわたるこの草原の上で、たった一度妻はこれだけの事をいった。 慣れたものには時刻といい、所柄ところがらといい熊の襲来を恐れる理由があった。 彼れはいまいましそうに草の中につばを吐き捨てた。

草原の中の道がだんだん太くなって国道に続く所まで来た頃には日は暮れてしまっていた。 物の輪郭りんかく円味まるみを帯びずに、堅いままで黒ずんで行くこちんとした寒い晩秋の夜が来た。

着物は薄かった。 そして二人はっていた。 妻は気にして時々赤坊を見た。 生きているのか死んでいるのか、とにかく赤坊はいびきも立てないで首を右の肩にがくりと垂れたまま黙っていた。

国道の上にはさすがに人影が一人二人動いていた。 大抵は市街地に出て一杯飲んでいたのらしく、行違いにしたたか酒の香を送ってよこすものもあった。 彼れは酒の香をかぐと急にえぐられるような渇きと食欲とを覚えて、すれ違った男を見送ったりしたが、いまいましさに吐き捨てようとする唾はもう出て来なかった。 のりのように粘ったものがくちびるの合せ目をとじ付けていた。

内地ならば庚申塚こうしんづかか石地蔵でもあるはずの所に、真黒になった一丈もありそうな標示杭ひょうじぐいが斜めになって立っていた。 そこまで来ると干魚ひざかなをやくにおいがかすかに彼れの鼻をうったと思った。 彼れははじめて立停った。 痩馬も歩いた姿勢をそのままにのそりと動かなくなった。 たてがみ尻尾しりっぽだけが風に従ってなびいた。

「何んていうだ農場は」

背丈せたけの図抜けて高い彼れは妻を見おろすようにしてこうつぶやいた。

「松川農場たらいうだが」

「たらいうだ? 白痴こけ

彼れは妻と言葉を交わしたのがしゃくにさわった。 そして馬の鼻をぐんと手綱でしごいてまた歩き出した。

序章-章なし
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カインの末裔 - 情報

カインの末裔

カインのまつえい

文字数 31,879文字

著者リスト:
著者有島 武郎

底本 カインの末裔 クララの出家

親本 有島武郎著作集 第三輯

青空情報


底本:「カインの末裔 クララの出家」岩波文庫、岩波書店
   1940(昭和15)年9月10日第1刷発行
   1980(昭和55)年5月16日第25刷改版発行
   1990(平成2)年4月15日第35刷発行
底本の親本:「有島武郎著作集 第三輯」新潮社
   1918(大正7)年2月刊
初出:「新小説」
   1917(大正6)年7月号
入力:鈴木厚司
校正:地田尚
2000年3月4日公開
2005年9月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:カインの末裔

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