序章-章なし
一、濁密防止講演会
〔冒頭原稿数枚なし〕
イギリスの大学の試験では牛でさへ酒を呑ませると目方が増すと云ひます。
又これは実に人間エネルギーの根元です。
酒は圧縮せる液体のパンと云ふのは実に名言です。
堀部安兵衛が高田の馬場で三十人の仇討ちさへ出来たのも実に酒の為にエネルギーが沢山あったからです。
みなさん、国家のため世界のため大に酒を呑んで下さい。」
(小学校長が青くなってゐる。
役場から云はれて仕方なく学校を貸したのだが何が何でもこれではあんまりだと思ってすっかり青くなったな)と税務署長は思ひました。
けれどもそれは大ちがひで小学校長の青く見えたのはあんまりほめられて一そう酒が呑みたくなったのでした。
なぜならこの校長さんは樽こ先生といふあだ名で一ぺんに一升ぐらゐは何でもなかったのです。
みんなはもちろん大賛成でうまいぞ、えらいぞ、と手をたゝいてほめたのでした。
税務署長がまた見掛けの太ったざっくばらんらしい男でいかにも正直らしくみんなが怒るかも知れないなんといふことは気にもとめずどんどん云ひたいことを云ひました。
実際それはひどい悪口もあってどうしてもみんなひどく怒らなければならない筈なのにも係はらずみんなはほんたうに面白さうに何べんも何べんも手を叩いたり笑ったりして聞いてゐました。
そのはじめの方をちゞめて見ますとこんな工合です。
「濁密をやるにしてもさ、あんまり下手なことはやってもらひたくないな。
なぁんだ、味噌桶の中に、醪を仕込んで上に板をのせて味噌を塗って置く、ステッキでつっついて見るとすぐ板が出るぢゃないか。
廐の枯草の中にかくして置く、いゝ馬だなあ、乳もしぼれるかいと云ふと顔いろを変へてゐる。
新らしい肥樽の中に仕込んで林の萱の中に置く。
誰かにこっそり持って行かれても大声で怒られない。
煤だらけの天井裏にこさへて置いて取って帰って来るときは眼をまっ赤にしてゐる。
できあがった酒だって見られたざまぢゃない。
どうせにごり酒だから濁ってゐるのはいゝとして酸っぱいのもある、甘いのもある、アイヌや生蕃にやってもまあご免蒙りませうといふやうなのだ。
そんなものはこの電燈時代の進歩した人類が呑むべきもんぢゃない。
どうせやるならなぜもう少し大仕掛けに設備を整へて共同ででもやらないか。
すべからく米も電気で研ぐべし、しぼるときには水圧機を使ふべし、乳酸菌を利用し、ピペット、ビーカー、ビュウレット立派な化学の試験器械を使って清潔に上等の酒をつくらないか。
もっともその時は税金は出して貰ひたい。
さう云ふふうにやるならばわれわれは実に歓迎する。
技師やなんかの世話までして上げてもいゝ。
こそこそ半分かうじのまゝの酒を三升つくって罰金を百円とられるよりは大びらでいゝ酒を七斗呑めよ。」
まだまだずゐぶんひどく悪まれ口もきゝ耳の痛い筈なやうなことも云ひましたが誰も気持ち悪くする人はなく話が進めば進むほど、いよいよみんな愉快さうに顔を熱らして笑ったり手を叩いたりしました。
どうもをかしいどうもをかしい、どうもをかしいとみんなの顔つきをきょろきょろ見ながらその割合ざっくばらんの少しずるい税務署長が思ひました。
税務署長の考ではうんと悪口を云ってどれ位赤くなって怒る人があるかを見て大体その村の濁密の数を勘定しようと云ふのでした。
それがいけないやうでしたから今度はだんだんおどしにかゝって青くなる人を見てやらうと思ひました。
ところがやっぱり面白さうに笑ひます。
税務署長は気が気でなく卒倒しさうになって頭に手をあげました。
全体こんなにおれの悪口をよろこんで笑ふのはみんなが一人も密造をしてゐないのか、それともおれの心底がわかってゐるのか、どうも気味が悪い、よしもう一つだけ山をかけて見ようと思って最後にコップの水を一口のんでできる丈け落ち着いて斯う云ひました。
「正直を云ふとみんながどんなにこっそり濁密をやった所でおれの方ではちゃんとわかってゐる。
この会衆の中にも七人のおれの方への密告者がまじってゐるのだ。」