大嘗祭の本義
著者:折口信夫
だいじょうさいのほんぎ - おりくち しのぶ
文字数:39,904 底本発行年:1930
一
最初には、演題を「民俗学より見たる大嘗祭」として見たが、其では、大嘗祭が軽い意義になりはせぬか、と心配して、其で「大嘗祭の本義」とした。
題目が甚、神道家らしく、何か神道の宣伝めいた様なきらひがあるが、実は今までの神道家の考へ方では、大嘗祭はよく訣らぬ。 民俗学の立場から、此を明らかにして見たい。
此処で申して置かねばならぬのは、私の話が、或は不謹慎の様に受け取られる部分があるかも知れない、といふ事である。
だが、話は明白にせぬと何も訣らぬ。
話を明白にするのが、却つて其を慕ふ事にもなり、ほんとうの愛情が表れる事にもなる。
或は、吾々祖先の生活上の
二
まづ「にへまつり」の事から話して見る。
「にへ」は、神又は天皇陛下の召し上り物、といふ事である。
調理した食物の事をいふので、「いけにへ」とはちがふ。
只今の神道家では、にへといへば、
大嘗祭は、古くはおほむべまつりと言うて居る。 おほんべ即、大嘗に就ては、次の新嘗・大嘗の処で話す事にして、此処では、まづまつりの語源を調べて見る事にする。 此まつりといふ語がよく訣らぬと、上代の文献を見ても、解決のつかぬ事が多い。
まつりごととは、政といふ事ではなく、朝廷の公事全体を斥して言ふ。
譬へば、食国政・御命購政などゝ言ふし、平安朝になつても、検非違使庁の
私は、まつる・またすといふ言葉は、対句をなして居て、自ら為る事をまつると謂ひ、人をして為さしむる事をば、またすと謂ふのであると見て居る。 日本紀を見ても、遣又は令といふ字をまたすと訓ませて居る。
一体、まつるといふ語には、服従の意味がある。 まつらふも同様である。 上の者の命令通りに執り行ふことがまつるで、人をしてやらせるのをまたすといふ。 人に物を奉る事をまたすといふのだ、と考へる人もあるが、よくない。 人をしてまつらしむる事、此がまたすと謂ふのである。 させる・してやらせる、此がまたすである。
日本の太古の考へでは、此国の為事は、すべて天つ国の為事を、其まゝ行つて居るのであつて、神事以外には、何もない。 此国に行はれる事は、天つ神の命令によつて行つて居るので、つまり、此天つ神の命令を伝へ、又命令どほり執り行うて居る事をば、まつるといふのである。
処が後には、少し意味が変化して、命令通りに執行いたしました、と神に復奏する事をも、まつるといふ様になつた。