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夏の花

著者:原民喜

なつのはな - はら たみき

文字数:12,711 底本発行年:1983
著者リスト:
著者原 民喜
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序章-章なし

わが愛する者よ請ふ急ぎはしれ

香はしき山々の上にありて※(「けものへん+章」、第3水準1-87-80、12-上-3)

ごとく小鹿のごとくあれ

私は街に出て花を買ふと、妻の墓を訪れようと思つた。 ポケットには仏壇からとり出した線香が一束あつた。 八月十五日は妻にとつて初盆にあたるのだが、それまでこのふるさとの街が無事かどうかは疑はしかつた。 恰度、休電日ではあつたが、朝から花をもつて街を歩いてゐる男は、私のほかに見あたらなかつた。 その花は何といふ名称なのか知らないが、黄色の小瓣の可憐な野趣を帯び、いかにも夏の花らしかつた。

炎天に曝されてゐる墓石に水を打ち、その花を二つに分けて左右の花たてに差すと、墓のおもてが何となく清々しくなつたやうで、私はしばらく花と石に視入つた。 この墓の下には妻ばかりか、父母の骨も納まつてゐるのだつた。 持つて来た線香にマツチをつけ、黙礼を済ますと私はかたはらの井戸で水を呑んだ。 それから、饒津公園の方を廻つて家に戻つたのであるが、その日も、その翌日も、私のポケツトは線香の匂がしみこんでゐた。 原子爆弾に襲はれたのは、その翌々日のことであつた。

私は厠にゐたため一命を拾つた。 八月六日の朝、私は八時頃床を離れた。 前の晩二回も空襲警報が出、何事もなかつたので、夜明前には服を全部脱いで、久振りに寝巻に着替へて睡つた。 それで、起き出した時もパンツ一つであつた。 妹はこの姿をみると、朝寝したことをぷつぷつ難じてゐたが、私は黙つて便所へ這入つた。

それから何秒後のことかはつきりしないが、突然、私の頭上に一撃が加へられ、眼の前に暗闇がすべり墜ちた。 私は思はずうわあと喚き、頭に手をやつて立上つた。 嵐のやうなものの墜落する音のほかは真暗でなにもわからない。 手探りで扉を開けると、縁側があつた。 その時まで、私はうわあといふ自分の声を、ざあーといふもの音の中にはつきり耳にきき、眼が見えないので悶えてゐた。 しかし、縁側に出ると、間もなく薄らあかりの中に破壊された家屋が浮び出し、気持もはつきりして来た。

それはひどく厭な夢のなかの出来事に似てゐた。 最初、私の頭に一撃が加へられ眼が見えなくなつた時、私は自分が斃れてはゐないことを知つた。 それから、ひどく面倒なことになつたと思ひ腹立たしかつた。 そして、うわあと叫んでゐる自分の声が何だか別人の声のやうに耳にきこえた。 しかし、あたりの様子が朧ながら目に見えだして来ると、今度は惨劇の舞台の中に立つてゐるやうな気持であつた。 たしか、かういふ光景は映画などで見たことがある。 濛々と煙る砂塵のむかふに青い空間が見え、つづいてその空間の数が増えた。 壁の脱落した処や、思ひがけない方向から明りが射して来る、畳の飛散つた坐板の上をそろそろ歩いて行くと、向から凄さまじい勢で妹が駈けつけて来た。

「やられなかつた、やられなかつたの、大丈夫」と妹は叫び、「眼から血が出てゐる、早く洗ひなさい」と台所の流しに水道が出てゐることを教へてくれた。

私は自分が全裸体でゐることを気付いたので、「とにかく着るものはないか」と妹を顧ると、妹は壊れ残つた押入からうまくパンツを取出してくれた。 そこへ誰か奇妙な身振りで闖入して来たものがあつた。 顔を血だらけにし、シヤツ一枚の男は工場の人であつたが、私の姿を見ると、

「あなたは無事でよかつたですな」と云ひ捨て、「電話、電話、電話をかけなきや」と呟きながら忙しさうに何処かへ立去つた。

到るところに隙間が出来、建具も畳も散乱した家は、柱と閾ばかりがはつきりと現れ、しばし奇異な沈黙をつづけてゐた。 これがこの家の最後の姿らしかつた。

序章-章なし
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夏の花 - 情報

夏の花

なつのはな

文字数 12,711文字

著者リスト:
著者原 民喜

底本 日本の原爆文学1 原民喜

青空情報


底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ出版
   1983(昭和58)年8月1日初版第1刷発行
初出:「三田文学」
   1947(昭和22)年6月号
※連作「夏の花」の1作目。
※冒頭の詩は、連作「夏の花」全体の初めに置かれているものであるが、ここでは、表題作である「夏の花」の冒頭に入れた。
※誤植と思われる箇所については、「現代日本文学大系 92巻」、筑摩書房刊の他4冊の異本を参照した。
入力:ジェラスガイ
校正:林 幸雄
2002年9月19日作成
2003年5月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:夏の花

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