序章-章なし
まえがき
ここに訳出した『ルバイヤート』(四行詩)は、十九世紀のイギリス詩人フィツジェラルド Edward FitzGerald の名訳によって、欧米はもちろん、広く全世界にその名を知られるにいたった十一−十二世紀のペルシアの科学者、哲学者また詩人、オマル・ハイヤーム Omar Khayy
m('Umar Khaiy
m[#「Kh」に下線])の作品である。
フィツジェラルドが、一八五九年にその翻訳を自費出版で初版わずかに二五〇部だけ印刷した時には、若干を友人に分けて、残りはこれを印刷した本屋に一冊五シリングで売らせたのであったが、当時はいっこうに人気がなく、いくら値を下げても買手がつかないので、ついには一冊一ペニイの安値で古本屋の見切り本の箱の中にならべられる運命となった。
出版してから三年ばかり後のこと、ラファエル前派の詩人ロゼッテイの二人の友人が、散歩の途次偶然、埃に埋もれたこの珍しい本を発見して、彼にその話をした。
ロゼッテイは同志の詩人スウィンバーンと一緒に件の店に出かけて行って、ちょっとその本を覗いただけで直ちにその価値を認め、おのおの数冊ずつ買って帰った。
翌日彼らは友人に贈るためになお数冊買うつもりでまたその店へ行ったが、店の者は前には一冊一ペニイだったのを今度は二ペンスだと言った。
ロゼッテイは怒りと諧謔をまぜた抗議口調でその男に食ってかかったが、結局二倍の値段で少しばかり買って立ち去った。
それから一、二週間後には残りの『ルバイヤート』の値段は一躍一ギニイにも跳ね上ったという。
このように数奇な運命をたどったフィツジェラルドの翻訳は、ラファエル前派の詩人たちの推称によってようやく識者の注目をひくにいたり、初版後九年を経た一八六八年に第二版、それから四年後の七二年に第三版、また七九年には最後の第四版が出版され、フィツジェラルドの死後『ルバイヤート』はますます広く読まれるにいたった。
ことに十九世紀末から今世紀の初めにかけてオマル・ハイヤーム熱は一種の流行となって英米を風靡し、その余波は大陸諸国にも及んだ。
ロンドンやアメリカには『オマル・ハイヤーム・クラブ』が設立され、またパリでは彼の名が、酒場の看板にまで用いられるほどであった。
フィツジェラルドの翻訳はいろいろの体裁で翻刻され、各国語に訳された。
さらにまたフィツジェラルドのこの奔放な韻文訳以外にも、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、イタリイ語等への直接ペルシア語からの韻文や散文の訳が数多く試みられた。
わが国でも、明治四十一年(一九〇八年)にはじめて蒲原有明がフィツジェラルドの訳書中から六首を選んで重訳紹介して以来、今日までに多くの翻訳書が出た。
今ではもうフィツジェラルドの名訳はそれ自身英文学のクラシックに列せられている。
オマル・ハイヤームの名はこうして世界的なものとなった。
詩聖ゲーテはその有名な『西東詩集』の中で、人も知るごとく、ペルシア語の原文さえも引用して、古きイランの詩人たちを推称した。
彼は言った――「ペルシア人は五世紀間の数多い詩人の中で、特筆に値いする詩人としてわずかに七人の名しか挙げないと言われている。
しかし彼らが斥ける残余の詩人の中にさえも、私などよりは遙かに傑れた人々がたくさんいるのにちがいない」と。
自負心の強いこの詩人にしてこの言をなした、もって傾倒のほどが知られよう。
だが彼の挙げた七人の詩人の中にはわがオマル・ハイヤームの名は含まれていない。
ゲーテはオマルをも『ルバイヤート』をも知らなかったものと見える。
ハイヤームの詩人としての名は昔も今もペルシアではすこぶる高い。
だから田舎の農夫でもその詩の一首や二首は知っている。
現代イラン人の書いた文学史にはオマルの名は八大詩人の中に数え上げられている。
それにもかかわらず、彼の詩に盛られた思想が、狂信的なイスラム教(回教)と相容れないばかりか、これを冒涜する性質さえ持っていたために、ペルシアにおけるイスラム教勢力が衰えた最近代にいたるまでは、文学史上でハイヤームの詩人的才能を讃えた例はなかったもので、したがってヨーロッパのペルシア学者も、フィツジェラルドや彼にオマルを推称した友人の東洋学者以前には、あまり『ルバイヤート』に注意を払わなかった。
そういうわけで、一八三二年に死んだゲーテとしてはフィツジェラルドの翻訳(一八五九年出版)に接する機会はもちろんなかったし、またそれ以前のドイツ語訳によってハイヤームを知るという機会もなかった。
彼はまさに「私などよりは遙かに傑れた人々がたくさんいるのにちがいない」と予期したとおり、最も傑れた詩人の一人を逸したわけである。
自ら挙げた七人のペルシア詩人中の一人で、十四世紀に生きていたハーフェズのペシミズム溢れる抒情詩から、ゲーテは多大の影響を受けたと言われている。
もしも彼にしてハーフェズの創作上の先師であったオマル・ハイヤームを知っていたならば、この東方に深く憧れた詩人の『西東詩集』には、さらに色濃いオマル的な懐疑の色調が加えられたかも知れない。
本書に収めた一四三首はペルシア語の原典から直接訳したもので、テクストにはオマルの原作として定評のあるものだけを厳選し、また最近のイランにおける新しい配列の仕方に従って、「解き得ぬ謎」、「生きのなやみ」、「太初のさだめ」、「万物流転」、「無常の車」、「ままよ、どうあろうと」、「むなしさよ」、「一瞬をいかせ」の八部に分類した。
もちろんハイヤームが最初の写本を友人に示した当時にはこのような配列順序にはよらなかったであろう。
しかも彼自身の配列方法は今では不明であるし、普通の写本のようにイロハ順で漫然と並べるよりも、内容の類似点を捉えたこの配列の方が遙かに合理的だと考える。
各四行詩に附した番号はこの分類にはかかわりなく、全体に通ずる通し番号である。
オマルのものかどうかなお多少疑いの余地あるものは冒頭の番号を( )で包んだ。
で包んだ。
他はすべて彼の作として異論がない。
はじめ、フィツジェラルドの英訳をテクストとした森亮氏の傑れた訳業に啓発されて、全部有明調の文語体で翻訳したが(解説二、「ルバイヤートについて」の項参照)、その後佐藤春夫氏のすすめにより口語体に改めた。
同氏の御親切に対して深謝するものである。