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弟子

著者:中島敦

でし - なかじま あつし

文字数:23,676 底本発行年:1987
著者リスト:
著者中島 敦
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序章-章なし

べん游侠ゆうきょうの徒、仲由ちゅうゆうあざなは子路という者が、近頃ちかごろ賢者けんじゃうわさも高い学匠がくしょう陬人すうひと孔丘こうきゅうはずかしめてくれようものと思い立った。 似而非えせ賢者何程なにほどのことやあらんと、蓬頭突鬢ほうとうとつびん垂冠すいかん短後たんこうの衣という服装いでたちで、左手に※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)おんどり、右手に牡豚おすぶたを引提げ、いきおいもうに、孔丘が家を指して出掛でかける。 ※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)り豚をふるい、かまびすしい脣吻しんぷんの音をもって、儒家じゅか絃歌講誦げんかこうしょうの声をみだそうというのである。

けたたましい動物のさけびと共にいからしてんで来た青年と、圜冠句履えんかんこうりゆる※(「王+夬」、第3水準1-87-87)けつを帯びてった温顔の孔子との間に、問答が始まる。

なんじ、何をか好む?」と孔子が聞く。

「我、長剣ちょうけんを好む。」 と青年は昂然こうぜんとして言い放つ。

孔子は思わずニコリとした。 青年の声や態度の中に、余りに稚気ちき満々たる誇負こふを見たからである。 血色のいい・まゆの太い・眼のはっきりした・見るからに精悍せいかんそうな青年の顔には、しかし、どこか、愛すべき素直さがおのずと現れているように思われる。 再び孔子が聞く。

「学はすなわちいかん?」

「学、あに、益あらんや。」 もともとこれを言うのが目的なのだから、子路は勢込んで怒鳴どなるように答える。

学の権威けんいについて云々うんぬんされては微笑わらってばかりもいられない。 孔子は諄々じゅんじゅんとして学の必要を説き始める。 人君じんくんにして諫臣かんしんが無ければせいを失い、士にして教友が無ければちょうを失う。 なわを受けて始めて直くなるのではないか。 馬にむちが、弓にけいが必要なように、人にも、その放恣ほうしな性情をめる教学が、どうして必要でなかろうぞ。 ただおさみがいて、始めてものは有用の材となるのだ。

後世に残された語録の字面じづらなどからは到底とうてい想像も出来ぬ・極めて説得的な弁舌を孔子はっていた。 言葉の内容ばかりでなく、そのおだやかな音声・抑揚よくようの中にも、それを語る時の極めて確信にちた態度の中にも、どうしても聴者を説得せずにはおかないものがある。 青年の態度からは次第に反抗はんこうの色が消えて、ようやく謹聴きんちょうの様子に変って来る。

「しかし」と、それでも子路はなお逆襲ぎゃくしゅうする気力を失わない。 南山の竹はめずして自ら直く、ってこれを用うれば犀革さいかくの厚きをも通すと聞いている。 して見れば、天性優れたる者にとって、何の学ぶ必要があろうか?

孔子にとって、こんな幼稚な譬喩ひゆを打破るほどたやすい事はない。 汝のうその南山の竹に矢の羽をつけやじりを付けてこれをみがいたならば、ただに犀革を通すのみではあるまいに、と孔子に言われた時、愛すべき単純な若者は返す言葉にきゅうした[#「きゅうした」は底本では「きゅうしした」] 顔をあからめ、しばらく孔子の前に突立つったったまま何か考えている様子だったが、急に※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)と豚とをほうり出し、頭をれて、「つつしんで教を受けん。」 と降参した。 単に言葉に窮したためではない。 実は、室に入って孔子のすがたを見、その最初の一言を聞いた時、直ちに※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)けいとん場違ばちがいであることを感じ、おのれと余りにも懸絶けんぜつした相手の大きさに圧倒あっとうされていたのである。

即日そくじつ、子路は師弟の礼をって孔子の門に入った。

このような人間を、子路は見たことがない。 千鈞せんきんかなえを挙げる勇者をかれは見たことがある。 めい千里の外を察する智者ちしゃの話も聞いたことがある。 しかし、孔子に在るものは、決してそんな怪物かいぶつめいた異常さではない。

序章-章なし
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弟子

でし

文字数 23,676文字

著者リスト:
著者中島 敦

底本 ちくま日本文学全集 中島敦

親本 中島敦全集 第一巻

青空情報


底本:「ちくま日本文学全集 中島敦」筑摩書房
   1992(平成4)年7月20日第1刷発行
底本の親本:「中島敦全集 第一巻」筑摩書房
   1987(昭和62)年9月
入力:大内章
校正:川向直樹
2004年9月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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