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あばばばば

著者:芥川龍之介

あばばばば - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:6,226 底本発行年:1968
著者リスト:
著者芥川 竜之介
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序章-章なし

保吉やすきちはずつと以前からこの店の主人を見知つてゐる。

ずつと以前から、――或はあの海軍の学校へ赴任した当日だつたかも知れない。 彼はふとこの店へマツチを一つ買ひにはひつた。 店には小さい飾り窓があり、窓の中には大将旗を掲げた軍艦三笠みかさの模型のまはりにキユラソオの壜だのココアの罐だの葡萄ぶだうの箱だのが並べてある。 が、軒先に「たばこ」と抜いた赤塗りの看板が出てゐるから、勿論マツチも売らない筈はない。 彼は店をのぞきこみながら、「マツチを一つくれ給へ」と云つた。 店先には高い勘定台かんぢやうだいの後ろに若いすがめの男が一人、つまらなさうにたたずんでゐる。 それが彼の顔を見ると、算盤そろばんたてに構へたまま、にこりともせずに返事をした。

「これをお持ちなさい。 生憎あいにくマツチを切らしましたから。」

お持ちなさいと云ふのは煙草に添へる一番小型のマツチである。

「貰ふのは気の毒だ。 ぢや朝日あさひを一つくれ給へ。」

「何、かまひません。 お持ちなさい。」

「いや、まあ朝日をくれ給へ。」

「お持ちなさい。 これでよろしけりや、――入らぬ物をお買ひになるには及ばないです。」

すがめの男の云ふことは親切づくなのには違ひない。 が、その声や顔色は如何いかにも無愛想を極めてゐる。 素直に貰ふのはいまいましい。 と云つて店を飛び出すのは多少相手に気の毒である。 保吉はやむを得ず勘定台の上へ一銭の銅貨を一枚出した。

「ぢやそのマツチを二つくれ給へ。」

「二つでも三つでもお持ちなさい。 ですがだいは入りません。」

其処そこへ幸ひ戸口に下げた金線きんせんサイダアのポスタアの蔭から、小僧が一人首を出した。 これは表情の朦朧もうろうとした、面皰にきびだらけの小僧である。

檀那だんな、マツチは此処ここにありますぜ。」

保吉は内心凱歌を挙げながら、大型のマツチを一箱買つた。 だいは勿論一銭である。 しかし彼はこの時ほど、マツチの美しさを感じたことはない。 殊に三角の波の上に帆前船ほまへせんを浮べた商標は額縁へ入れてもい位である。 彼はズボンのポケツトの底へちやんとそのマツチを落した後、得々とくとくとこの店を後ろにした。 ……

保吉は爾来半年はんとしばかり、学校へ通ふ往復に度たびこの店へ買ひ物に寄つた。 もう今では目をつぶつても、はつきりこの店を思ひ出すことが出来る。 天井のはりからぶら下つたのは鎌倉のハムに違ひない。 欄間らんま色硝子いろガラス漆喰しつくひ塗りの壁へ緑色の日の光を映してゐる。

序章-章なし
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あばばばば - 情報

あばばばば

あばばばば

文字数 6,226文字

著者リスト:

底本 現代日本文學大系 43 芥川龍之介集

青空情報


底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月16日公開
2004年2月12日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:あばばばば

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