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応仁の乱

著者:菊池寛

おうにんのらん - きくち かん

文字数:7,558 底本発行年:1987
著者リスト:
著者菊池 寛
底本: 日本合戦譚
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序章-章なし

天下大乱の兆

応仁の大乱は応仁元年より、文明九年まで続いた十一年間の事変である。 戦争としては、何等目を驚かすものがあるわけでない。 勇壮な場面や、華々しい情景には乏しい。 活躍する人物にも英雄豪傑はいない。 それが十一年もだらだらと続いた、緩慢な戦乱である。

併しだらだらでも十一年続いたから、その影響は大きい。 京都に起った此の争乱がやがて、地方に波及拡大し、日本国中が一つの軟体動物の蠕動ぜんどう運動の様に、動揺したのである。 此の後にきたるものが所謂いわゆる戦国時代だ。 即ち実力主義が最も露骨に発揮された、活気横溢せる時代である。 武士にとっては滅多に願ってもかなえられない得意の時代が来たのだ。 心行くまで彼等に腕を振わせる大舞台が開展したのだ。 その意味で序幕の応仁の乱も、意義があると云うべきである。

応仁の乱の責任者として、古来最も指弾されて居るのは、将軍義政で、秕政ひせい驕奢きょうしゃが、その起因をなしたと云われる。

義満の金閣寺に真似て、銀閣を東山に建てたが、費用が足りなくて銀がれなかったなど、有名な話である。 大体彼は建築道楽で、寛正かんしょうの大飢饉に際し、死屍しし京の賀茂川を埋むる程なのに、新邸の造営に余念がない。

彼の豪奢の絶頂は、寛正六年三月の花頂山の花見宴であろう。 咲き誇る桜の下で当時流行の連歌会を催し、義政自ら発句を作って、

「咲き満ちて、花より外に色もなし」と詠じた。 一代の享楽児の面目躍如たるものがある。 併し義政は単に一介の風流人ではなく、相当頭のよい男であった。 天下大乱の兆、ようやくきざし、山名細川両氏の軋轢あつれき甚しく、両氏は互いに義政を利用しようとして居る。 ところが彼は巧みに両氏の間を泳いで不即不離の態度をとって居る。 だから両軍から別に憎怨ぞうおんせられず、戦乱に超越して風流を楽んで居られたのである。 政治的陰謀の激しい下剋上げこくじょうの当時に於て、暗殺されなかっただけでも相当なものだ。 尤もそれだけに政治家としては、有っても無くてもよい存在であったのかも知れぬ。

事実、将軍としての彼は、無能であったらしく、治蹟の見る可きものなく、寵嬖ちょうへき政治に堕して居る。 併し何と云われても、信頼する事の出来ない重臣に取捲かれて居るより、愛妾寵臣の側に居た方が快適であるし、また安全であるに違いない。 殷鑒いんかん遠からず、現に嘉吉元年将軍義教よしのりは、重臣赤松満祐みつすけしいされて居るのである。

亦飢饉時の普請にしても、当時後花園天皇の御諷諫ごふうかんに会うや、ただちに中止して居る。 これなどは、彼の育ちのよいお坊っちゃんらしさが、よく現れて居て、そんなにむきになって批難するにはあたらないと思う。

所詮彼は一箇の文化人である。 近世に於ける趣味生活のよき紹介者であり、学芸の優れた保護者である。 義満以来の足利氏の芸術的素質を、最もよく相続して居る。 天下既に乱れ身辺に内戚のうれい多い彼が、わずかに逃避した境地がその風流である。 特に晩年の放縦と驕奢には、政治家として落第であった彼の、ニヒリズムが暗澹あんたんたる影を投げて居る。

故に表面的な驕奢と秕政の故に、義政を以て応仁の乱の責任者であると断ずるは、あたらない。 彼はむしうまる可き時を誤った人間である。 借金棒引きを迫って、一揆の頻発した時代だ。

序章-章なし
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応仁の乱 - 情報

応仁の乱

おうにんのらん

文字数 7,558文字

著者リスト:
著者菊池 寛

底本 日本合戦譚

青空情報


底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
   1987(昭和62)年2月10日第1刷
※底本は、物を数える際に用いる「ヶ」(区点番号5-86)(「六ヶ年」)を、大振りにつくっています。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:網迫、大野晋、Juki
校正:土屋隆
2009年11月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:応仁の乱

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