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西郷隆盛

著者:芥川龍之介

さいごうたかもり - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:10,836 底本発行年:1971
著者リスト:
著者芥川 竜之介
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序章-章なし

これは自分より二三年前に、大学の史学科を卒業した本間ほんまさんの話である。 本間さんが維新史に関する、二三興味ある論文の著者だと云う事は、知っている人も多いであろう。 僕は昨年の冬鎌倉へ転居する、丁度一週間ばかり前に、本間さんと一しょに飯を食いに行って、偶然この話を聞いた。

それがどう云うものか、この頃になっても、僕の頭を離れない。 そこで僕は今、この話を書く事によって、新小説の編輯者へんしゅうしゃに対する僕の寄稿のせめまっとうしようと思う。 もっとものちになって聞けば、これは「本間さんの西郷隆盛さいごうたかもり」と云って、友人間には有名な話の一つだそうである。 して見ればこの話もある社会には存外もう知られている事かも知れない。

本間さんはこの話をした時に、「真偽の判断は聞く人の自由です」と云った。 本間さんさえ主張しないものを、僕は勿論主張する必要がない。 まして読者はただ、古い新聞の記事を読むように、漫然とぎょうを追って、読み下してさえくれれば、よいのである。

―――――――――――――――――――――――――

かれこれ七八年も前にもなろうか。 丁度三月の下旬で、もうそろそろ清水きよみず一重桜ひとえざくらが咲きそうな――と云っても、まだみぞれまじりの雨がふる、ある寒さのきびしい夜の事である。 当時大学の学生だった本間さんは、午後九時何分かに京都を発した急行の上り列車の食堂で、白葡萄酒しろぶどうしゅのコップを前にしながら、ぼんやりM・C・Cの煙をふかしていた。 さっき米原まいばらを通り越したから、もう岐阜県のさかいに近づいているのに相違ない。 硝子ガラス窓から外を見ると、どこも一面にまっ暗である。 時々小さい火の光りが流れるように通りすぎるが、それも遠くの家の明りだか、汽車の煙突から出る火花だか判然しない。 その中でただ、窓をたたく、凍りかかった雨の音が、騒々しい車輪の音に単調な響を交している。

本間さんは、一週間ばかり前から春期休暇を利用して、維新前後の史料を研究かたがた、独りで京都へ遊びに来た。 が、来て見ると、調べたい事もふえて来れば、行って見たい所もいろいろある。 そこで何かとせわしい思をしている中に、いつか休暇も残少のこりすくなになった。 新学期の講義の始まるのにも、もうあまり時間はない。 そう思うと、いくら都踊りや保津川下ほつがわくだりに未練があっても、便々と東山ひがしやまを眺めて、日を暮しているのは、気がとがめる。 本間さんはとうとう思い切って、雨が降るのに荷拵にごしらえが出来ると、俵屋たわらやの玄関からくるまを駆って、制服制帽の甲斐甲斐しい姿を、七条の停車場へ運ばせる事にした。

ところが乗って見ると、二等列車の中は身動きも出来ないほどこんでいる。 ボオイが心配してくれたので、やっと腰を下す空地くうちが見つかったが、それではどうも眠れそうもない。 そうかと云って寝台は、勿論皆売切れている。 本間さんはしばらく、腰の広さ十に余る酒臭い陸軍将校と、眠りながら歯ぎしりをするどこかの令夫人との間にはさまって、出来るだけ肩をすぼめながら、青年らしい、とりとめのない空想にふけっていた。 が、その中に追々空想も種切れになってしまう。 それから強隣の圧迫も、次第に甚しくなって来るらしい。 そこで本間さんはむを得ず、立ったあとの空地へ制帽を置いて、一つ前に連結してある食堂車の中へ避難した。

食堂車の中はがらんとして、客はたった一人しかいない。 本間さんはそれから一番遠いテエブルへ行って、白葡萄酒を一杯云いつけた。 実は酒を飲みたい訳でも何でもない。 ただ、眠くなるまでの時間さえ、つぶす事が出来ればよいのである。 だから無愛想なウェエタアが琥珀こはくのような酒のさかずきを、彼の前へ置いて行ったあとでも、それにはちょいと唇を触れたばかりで、すぐにM・C・Cへ火をつけた。 煙草の煙は小さな青い輪を重ねて、明い電燈の光の中へ、悠々とのぼって行く。 本間さんはテエブルの下に長々と足をのばしながら、始めて楽に息がつけるような心もちになった。

が、体だけはくつろいでも、気分は妙に沈んでいる。

序章-章なし
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西郷隆盛 - 情報

西郷隆盛

さいごうたかもり

文字数 10,836文字

著者リスト:

底本 芥川龍之介全集2

親本 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集

青空情報


底本:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年10月28日第1刷発行
   1996(平成8)年7月15日第11刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月23日公開
2004年3月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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