序章-章なし
元和か、寛永か、とにかく遠い昔である。
天主のおん教を奉ずるものは、その頃でももう見つかり次第、火炙りや磔に遇わされていた。
しかし迫害が烈しいだけに、「万事にかない給うおん主」も、その頃は一層この国の宗徒に、あらたかな御加護を加えられたらしい。
長崎あたりの村々には、時々日の暮の光と一しょに、天使や聖徒の見舞う事があった。
現にあのさん・じょあん・ばちすたさえ、一度などは浦上の宗徒みげる弥兵衛の水車小屋に、姿を現したと伝えられている。
と同時に悪魔もまた宗徒の精進を妨げるため、あるいは見慣れぬ黒人となり、あるいは舶来の草花となり、あるいは網代の乗物となり、しばしば同じ村々に出没した。
夜昼さえ分たぬ土の牢に、みげる弥兵衛を苦しめた鼠も、実は悪魔の変化だったそうである。
弥兵衛は元和八年の秋、十一人の宗徒と火炙りになった。
――その元和か、寛永か、とにかく遠い昔である。
やはり浦上の山里村に、おぎんと云う童女が住んでいた。
おぎんの父母は大阪から、はるばる長崎へ流浪して来た。
が、何もし出さない内に、おぎん一人を残したまま、二人とも故人になってしまった。
勿論彼等他国ものは、天主のおん教を知るはずはない。
彼等の信じたのは仏教である。
禅か、法華か、それともまた浄土か、何にもせよ釈迦の教である。
ある仏蘭西のジェスウイットによれば、天性奸智に富んだ釈迦は、支那各地を遊歴しながら、阿弥陀と称する仏の道を説いた。
その後また日本の国へも、やはり同じ道を教に来た。
釈迦の説いた教によれば、我々人間の霊魂は、その罪の軽重深浅に従い、あるいは小鳥となり、あるいは牛となり、あるいはまた樹木となるそうである。
のみならず釈迦は生まれる時、彼の母を殺したと云う。
釈迦の教の荒誕なのは勿論、釈迦の大悪もまた明白である。
(ジアン・クラッセ)しかしおぎんの母親は、前にもちょいと書いた通り、そう云う真実を知るはずはない。
彼等は息を引きとった後も、釈迦の教を信じている。
寂しい墓原の松のかげに、末は「いんへるの」に堕ちるのも知らず、はかない極楽を夢見ている。
しかしおぎんは幸いにも、両親の無知に染まっていない。
これは山里村居つきの農夫、憐みの深いじょあん孫七は、とうにこの童女の額へ、ばぷちずものおん水を注いだ上、まりやと云う名を与えていた。
おぎんは釈迦が生まれた時、天と地とを指しながら、「天上天下唯我独尊」と獅子吼した事などは信じていない。
その代りに、「深く御柔軟、深く御哀憐、勝れて甘くまします童女さんた・まりあ様」が、自然と身ごもった事を信じている。
「十字架に懸り死し給い、石の御棺に納められ給い、」大地の底に埋められたぜすすが、三日の後よみ返った事を信じている。
御糺明の喇叭さえ響き渡れば、「おん主、大いなる御威光、大いなる御威勢を以て天下り給い、土埃になりたる人々の色身を、もとの霊魂に併せてよみ返し給い、善人は天上の快楽を受け、また悪人は天狗と共に、地獄に堕ち」る事を信じている。
殊に「御言葉の御聖徳により、ぱんと酒の色形は変らずといえども、その正体はおん主の御血肉となり変る」尊いさがらめんとを信じている。
おぎんの心は両親のように、熱風に吹かれた沙漠ではない。
素朴な野薔薇の花を交えた、実りの豊かな麦畠である。
おぎんは両親を失った後、じょあん孫七の養女になった。
孫七の妻、じょあんなおすみも、やはり心の優しい人である。
おぎんはこの夫婦と一しょに、牛を追ったり麦を刈ったり、幸福にその日を送っていた。
勿論そう云う暮しの中にも、村人の目に立たない限りは、断食や祈祷も怠った事はない。
おぎんは井戸端の無花果のかげに、大きい三日月を仰ぎながら、しばしば熱心に祈祷を凝らした。
この垂れ髪の童女の祈祷は、こう云う簡単なものなのである。
「憐みのおん母、おん身におん礼をなし奉る。