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倫敦塔

著者:夏目漱石

ロンドンとう - なつめ そうせき

文字数:16,094 底本発行年:1971
著者リスト:
著者夏目 漱石
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序章-章なし

二年の留学中ただ一度倫敦塔ロンドンとうを見物した事がある。 その再び行こうと思った日もあるがやめにした。 人から誘われた事もあるがことわった。 一度で得た記憶を二返目へんめ打壊ぶちこわすのは惜しい、たび目にぬぐい去るのはもっとも残念だ。 「塔」の見物は一度に限ると思う。

行ったのは着後もないうちの事である。 その頃は方角もよく分らんし、地理などはもとより知らん。 まるで御殿場ごてんばうさぎが急に日本橋の真中まんなかほうり出されたような心持ちであった。 表へ出れば人の波にさらわれるかと思い、うちに帰れば汽車が自分の部屋に衝突しはせぬかと疑い、朝夕あさゆう安き心はなかった。 この響き、この群集の中に二年住んでいたらが神経の繊維せんいもついにはなべの中の麩海苔ふのりのごとくべとべとになるだろうとマクス・ノルダウの退化論を今さらのごとく大真理と思う折さえあった。

しかもは他の日本人のごとく紹介状を持って世話になりに行くあてもなく、また在留の旧知とては無論ない身の上であるから、恐々こわごわながら一枚の地図を案内として毎日見物のためもしくは用達ようたしのため出あるかねばならなかった。 無論むろん汽車へは乗らない、馬車へも乗れない、滅多めったな交通機関を利用しようとすると、どこへ連れて行かれるか分らない。 この広い倫敦ロンドン蜘蛛手くもで十字に往来する汽車も馬車も電気鉄道も鋼条鉄道も余には何らの便宜をも与える事が出来なかった。 余はやむを得ないから四ツ角へ出るたびに地図をひらいて通行人に押し返されながら足の向く方角を定める。 地図で知れぬ時は人に聞く、人に聞いて知れぬ時は巡査を探す、巡査でゆかぬ時はまたほかの人に尋ねる、何人でも合点がてんの行く人に出逢うまでは捕えては聞き呼び掛けては聞く。 かくしてようやくわが指定の地に至るのである。

「塔」を見物したのはあたかもこの方法に依らねば外出の出来ぬ時代の事と思う。 きたるに来所らいしょなく去るに去所きょしょを知らずとうと禅語ぜんごめくが、余はどの路を通って「塔」に着したかまたいかなる町を横ぎって吾家わがやに帰ったかいまだに判然しない。 どう考えても思い出せぬ。 ただ「塔」を見物しただけはたしかである。 「塔」その物の光景は今でもありありと眼に浮べる事が出来る。 前はと問われると困る、あとはと尋ねられても返答し得ぬ。 ただ前を忘れ後をしっしたる中間が会釈えしゃくもなく明るい。 あたかも闇をく稲妻の眉に落つると見えて消えたる心地ここちがする。 倫敦塔ロンドンとう宿世すくせの夢の焼点しょうてんのようだ。

倫敦塔の歴史は英国の歴史をせんじ詰めたものである。 過去と云うあやしき物をおおえる戸帳とばりおのずと裂けてがん中の幽光ゆうこうを二十世紀の上に反射するものは倫敦塔である。 すべてを葬る時の流れがさかしまに戻って古代の一片が現代にただよい来れりとも見るべきは倫敦塔である。 人の血、人の肉、人の罪が結晶して馬、車、汽車の中に取り残されたるは倫敦塔である。

この倫敦塔を塔橋とうきょうの上からテームス河を隔てて眼の前に望んだとき、余は今の人かはたいにしえの人かと思うまで我を忘れて余念もなくながめ入った。 冬の初めとはいいながら物静かな日である。 空は灰汁桶あくおけぜたような色をして低く塔の上に垂れ懸っている。 壁土をとかし込んだように見ゆるテームスの流れは波も立てず音もせず無理矢理むりやりに動いているかと思わるる。 帆懸舟ほかけぶねが一せき塔の下を行く。 風なき河に帆をあやつるのだから不規則な三角形の白き翼がいつまでも同じ所にとまっているようである。 伝馬てんまの大きいのが二そうのぼって来る。 ただ一人の船頭せんどうともに立ってぐ、これもほとんど動かない。 塔橋の欄干らんかんのあたりには白き影がちらちらする、大方おおかたかもめであろう。 見渡したところすべての物が静かである。

序章-章なし
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倫敦塔 - 情報

倫敦塔

ロンドンとう

文字数 16,094文字

著者リスト:
著者夏目 漱石

底本 夏目漱石全集2

親本 筑摩全集類聚版夏目漱石全集

青空情報


底本:「夏目漱石全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年10月27日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:LUNA CAT
2000年8月31日公開
2004年2月28日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:倫敦塔

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