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琴のそら音

著者:夏目漱石

ことのそらね - なつめ そうせき

文字数:20,957 底本発行年:1971
著者リスト:
著者夏目 漱石
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序章-章なし

「珍らしいね、久しく来なかったじゃないか」と津田君が出過ぎた洋灯ランプの穂を細めながら尋ねた。

津田君がこうった時、ははち切れて膝頭ひざがしらの出そうなズボンの上で、相馬焼そうまやき茶碗ちゃわん糸底いとそこを三本指でぐるぐる廻しながら考えた。 なるほど珍らしいに相違ない、この正月に顔を合せたぎり、花盛りの今日きょうまで津田君の下宿を訪問した事はない。

ようようと思いながら、つい忙がしいものだから――」

「そりゃあ、忙がしいだろう、何と云っても学校にいたうちとは違うからね、この頃でもやはり午後六時までかい」

「まあ大概そのくらいさ、うちへ帰って飯を食うとそれなり寝てしまう。 勉強どころか湯にも碌々ろくろく這入はいらないくらいだ」と余は茶碗を畳の上へ置いて、卒業がうらめしいと云う顔をして見せる。

津田君はこの一言いちごんに少々同情の念を起したと見えて「なるほど少しせたようだぜ、よほど苦しいのだろう」と云う。 気のせいか当人は学士になってから少々ふとったように見えるのがしゃくさわる。 机の上に何だか面白そうな本を広げて右のページの上に鉛筆で註が入れてある。 こんなひまがあるかと思うとうらやましくもあり、忌々いまいましくもあり、同時に吾身がうらめしくなる。

「君は不相変あいかわらず勉強で結構だ、その読みかけてある本は何かね。 ノートなどを入れてだいぶ叮嚀ていねいに調べているじゃないか」

「これか、なにこれは幽霊の本さ」と津田君はすこぶる平気な顔をしている。 このいそがしい世の中に、流行はやりもせぬ幽霊の書物をまして愛読するなどというのは、呑気のんきを通り越して贅沢ぜいたくの沙汰だと思う。

「僕も気楽に幽霊でも研究して見たいが、――どうも毎日芝から小石川の奥まで帰るのだから研究は愚か、自分が幽霊になりそうなくらいさ、考えると心細くなってしまう」

「そうだったね、つい忘れていた。 どうだい新世帯しんじょたいの味は。 一戸を構えるとおのずから主人らしい心持がするかね」と津田君は幽霊を研究するだけあって心理作用に立ち入った質問をする。

「あんまり主人らしい心持もしないさ。 やっぱり下宿の方が気楽でいいようだ。 あれでも万事整頓していたら旦那だんなの心持と云う特別な心持になれるかも知れんが、何しろ真鍮しんちゅう薬缶やかんで湯をかしたり、ブリッキの金盥かなだらいで顔を洗ってる内は主人らしくないからな」と実際のところを白状する。

「それでも主人さ。 これが俺のうちだと思えば何となく愉快だろう。 所有と云う事と愛惜あいせきという事は大抵の場合において伴なうのが原則だから」と津田君は心理学的に人の心を説明してくれる。 学者と云うものは頼みもせぬ事を一々説明してくれる者である。

「俺のうちだと思えばどうか知らんが、てんで俺のうちだと思いたくないんだからね。 そりゃ名前だけは主人に違いないさ。 だから門口かどぐちにも僕の名刺だけは張り付けて置いたがね。 七円五十銭の家賃の主人なんざあ、主人にしたところが見事な主人じゃない。 主人中の属官なるものだあね。 主人になるなら勅任主人か少なくとも奏任主人にならなくっちゃ愉快はないさ。 ただ下宿の時分より面倒がえるばかりだ」と深くも考えずに浮気うわきの不平だけを発表して相手の気色けしきうかがう。 向うが少しでも同意したら、すぐ不平の後陣ごじんり出すつもりである。

「なるほど真理はその辺にあるかも知れん。 下宿を続けている僕と、新たに一戸を構えた君とは自から立脚地が違うからな」と言語はすこぶるむずかしいがとにかく余の説に賛成だけはしてくれる。 この模様ならもう少し不平を陳列してもつかえはない。

「まずうちへ帰ると婆さんがよこじの帳面を持って僕の前へ出てくる。 今日こんにちは御味噌を三銭、大根を二本、鶉豆うずらまめを一銭五厘買いましたと精密なる報告をするんだね。

序章-章なし
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琴のそら音 - 情報

琴のそら音

ことのそらね

文字数 20,957文字

著者リスト:
著者夏目 漱石

底本 夏目漱石全集2

親本 筑摩全集類聚版夏目漱石全集

青空情報


底本:「夏目漱石全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年10月27日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:LUNA CAT
2000年8月31日公開
2004年2月26日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:琴のそら音

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