序章-章なし
一
今より六七年前、私はある地方に英語と数学の教師をしていたことがございます。
その町に城山というのがあって、大木暗く茂った山で、あまり高くはないが、はなはだ風景に富んでいましたゆえ、私は散歩がてらいつもこの山に登りました。
頂上には城あとが残っています。
高い石垣に蔦葛がからみついて、それが真紅に染まっているあんばいなど得も言われぬ趣でした。
昔は天主閣の建っていた所が平地になって、いつしか姫小松まばらにおいたち、夏草すきまなく茂り、見るからに昔をしのばす哀れなさまとなっています。
私は草を敷いて身を横たえ、数百年斧の入れたことのない欝たる深林の上を見越しに、近郊の田園を望んで楽しんだことも幾度であるかわかりませんほどでした。
ある日曜の午後と覚えています、時は秋の末で、大空は水のごとく澄んでいながら野分吹きすさんで城山の林は激しく鳴っていました。
私は例のごとく頂上に登って、やや西に傾いた日影の遠村近郊をあかく染めているのを見ながら、持って来た書物を読んでいますと、突然人の話し声が聞こえましたから石垣の端に出て下を見おろしました。
別に怪しい者でなく三人の小娘が枯れ枝を拾っているのでした。
風が激しいので得物も多いかして、たくさん背中にしょったままなおもあたりをあさっている様子です。
むつまじげに話しながら、楽しげに歌いながら拾っています、それがいずれも十二三、たぶん何村あたりの農家の子供でしょう。
私はしばらく見おろしていましたが、またもや書物のほうに目を移して、いつか小娘のことは忘れてしまいました。
するとキャッという女の声、驚いて下を見ますと、三人の子供は何に恐れたのか、枯れ木を背負ったままアタフタと逃げ出して、たちまち石垣のかなたにその姿を隠してしまいました。
おかしなことと私はその近所を注意して見おろしていると、薄暗い森の奥から下草を分けながら、道もない所をこなたへやって来る者があります。
初めは何者とも知れませんでしたが、森を出て石垣の下に現われたところを見ると、十一か十二歳と思わるる男の子です。
紺の筒袖を着て白もめんの兵児帯をしめている様子は百姓の子でも町家の者でもなさそうでした。
手に太い棒切れを持ってあたりをきょろきょろ見回していましたが、フト石垣の上を見上げた時、思わず二人は顔を見合わしました。
子供はじっと私の顔を見つめていましたが、やがてニヤリと笑いました。
その笑いが尋常でないのです。
生白い丸顔の、目のぎょろりとした様子までが、ただの子供でないと私はすぐ見て取りました。
「先生、何をしているの?」と私を呼びかけましたので私もちょっと驚きましたが、元来私の当時教師を勤めていた町はごく小さな城下ですから、私のほうでは自分の教え子のほかの人をあまり知らないでも、土地の者は都から来た年若い先生を大概知っているので、今この子供が私を呼びかけたも実は不思議はなかったのです。
そこへ気がつくや、私も声を優しゅうして、
「本を読んでいるのだよ。
ここへ来ませんか。」
と言うや、子供はイキなり石垣に手をかけて猿のように登りはじめました。
高さ五間以上もある壁のような石垣ですから、私は驚いて止めようと思っているうちに、早くも中ほどまで来て、手近の葛に手が届くと、すらすらとこれをたぐってたちまち私のそばに突っ立ちました。
そしてニヤニヤと笑っています。
「名前はなんというの?」と私は問いました。
「六」「六? 六さんというのかね。」
と問いますと、子供はうなずいたまま例の怪しい笑いをもらして、口を少しあけたまま私の顔を気味の悪いほど見つめているのです。
「いくつかね、年は?」と、私が問いますと、けげんな顔をしていますから、いま一度問い返しました。
すると妙な口つきをしてくちびるを動かしていましたが、急に両手を開いて指を折って一、二、三と読んで十、十一と飛ばし、顔をあげてまじめに、
「十一だ。」
と言う様子は、やっと五つぐらいの子の、ようよう数を覚えたのと少しも変わらないのです。
そこで私も思わず「よく知っていますね。」
「おっかさんに教わったのだ。」
「学校へゆきますか。」
「行かない。」