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妙な話

著者:芥川龍之介

みょうなはなし - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:4,796 底本発行年:1971
著者リスト:
著者芥川 竜之介
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序章-章なし

ある冬のわたしは旧友の村上むらかみと一しょに、銀座ぎんざ通りを歩いていた。

「この間千枝子ちえこから手紙が来たっけ。 君にもよろしくと云う事だった。」

村上はふと思い出したように、今は佐世保させほに住んでいる妹の消息を話題にした。

「千枝子さんも健在たっしゃだろうね。」

「ああ、この頃はずっと達者のようだ。 あいつも東京にいる時分は、随分ずいぶん神経衰弱もひどかったのだが、――あの時分は君も知っているね。」

「知っている。 が、神経衰弱だったかどうか、――」

「知らなかったかね。 あの時分の千枝子と来た日には、まるで気違いも同様さ。 泣くかと思うと笑っている。 笑っているかと思うと、――妙な話をし出すのだ。」

「妙な話?」

村上は返事をする前に、ある珈琲店カッフェ硝子扉ガラスどを押した。 そうして往来の見える卓子テーブルに私と向い合って腰を下した。

「妙な話さ。 君にはまだ話さなかったかしら。 これはあいつが佐世保へ行く前に、僕に話して聞かせたのだが。 ――」

君も知っている通り、千枝子の夫は欧洲おうしゅう戦役中、地中海ちちゅうかい方面へ派遣された「A――」の乗組将校だった。 あいつはその留守るすあいだ、僕の所へ来ていたのだが、いよいよ戦争も片がつくと云う頃から、急に神経衰弱がひどくなり出したのだ。 その主な原因は、今まで一週間に一度ずつはきっと来ていた夫の手紙が、ぱったり来なくなったせいかも知れない。 何しろ千枝子は結婚後まだ半年はんとしと経たない内に、夫と別れてしまったのだから、その手紙を楽しみにしていた事は、遠慮のない僕さえひやかすのは、残酷ざんこくな気がするくらいだった。

ちょうどその時分の事だった。 ある日、――そうそう、あの日は紀元節きげんせつだっけ。 何でも朝から雨の降り出した、寒さの厳しい午後だったが、千枝子は久しぶりに鎌倉かまくらへ、遊びに行って来ると云い出した。 鎌倉にはある実業家の細君になった、あいつの学校友だちが住んでいる。 ――そこへ遊びに行くと云うのだが、何もこの雨の降るのに、わざわざ鎌倉くんだりまで遊びに行く必要もないと思ったから、僕は勿論僕のさいも、再三明日あしたにした方が好くはないかと云って見た。 しかし千枝子は剛情に、どうしても今日行きたいと云う。 そうしてしまいには腹を立てながら、さっさと支度して出て行ってしまった。

事によると今日はとまって来るから、帰りは明日あすの朝になるかも知れない。 ――そう云ってあいつは出て行ったのだが、しばらくすると、どうしたのだかぐっしょり雨に濡れたまま、まっ蒼な顔をして帰って来た。 聞けば中央停車場から濠端ほりばたの電車の停留場まで、かさもささずに歩いたのだそうだ。 では何故なぜまたそんな事をしたのだと云うと、――それが妙な話なのだ。

千枝子が中央停車場へはいると、――いや、その前にまだこう云う事があった。 あいつが電車へ乗った所が、生憎あいにく客席が皆ふさがっている。 そこでかわにぶら下っていると、すぐ眼の前の硝子ガラス窓に、ぼんやり海の景色が映るのだそうだ。 電車はその時神保町じんぼうちょうの通りを走っていたのだから、無論むろん海の景色なぞが映る道理はない。

序章-章なし
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妙な話 - 情報

妙な話

みょうなはなし

文字数 4,796文字

著者リスト:

底本 芥川龍之介全集4

親本 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集

青空情報


底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年1月27日第1刷発行
   1993(平成5)年12月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月19日公開
2004年3月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:妙な話

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